古典学エッセイ

篠塚千惠子:表紙絵《ルドヴィシの玉座》(2021年10月掲載)に寄せて(その6)

 《ルドヴィシの玉座》は、ロクリのどこに置かれ、どのような役割を果たしていたのか?私たちはすでにプリュックナーとともにマラサのイオニア式神殿の奥深くまで入り込んだのだった(「その4」を参照)。彼はこの神殿をアフロディテに捧げられた神殿と解釈しただけではなかった。ナオス中央に人為的に設けられた穴をアフロディテ祭儀のための至聖所とみなし、その穴を囲う柵ないし衝立としてルドヴィシとボストンの浮彫彫刻が据えられていたと考えた。この驚くべき仮説に対しどんな反応があったのだろうか? 反応はすぐに現れなかった。

 プリュックナーの研究は《ロクリのピナケス》を中心主題にしていた。《ピナケス》と古代ロクリの祭儀に関する彼の新説は、当初ごうごうたる批判を浴びた。批判の嵐は才気煥発の若き古典考古学徒の研究続行意欲を殺ぐほど激しいものだったようだ。おそらく彼の著書の出現は早過ぎたのだ。ロクリと言えばペルセフォネ信仰の聖地というのが常識(定説)だった時代にそれは現れ、その常識を覆してしまった、いや覆しかねなかった。学者たちは動揺し困惑した。

 だが、学問の定説とは何なのだろう?それはいつか覆されるためのもの、少なくとも修正を逃れることのできないものなのではないか。〈パブロ・ピカソがかつて言ったように、物の見方は誰かがやってきて別の見方を示してくれるまでは一つしかない〉(文献1, p.xiii)。事実、それから徐々にではあるが、ペルセフォネ信仰の聖地としてのロクリという常識は修正を迫られていった。1976年のマグナ・グラエキア学会の報告書を繙くなら、プリュックナーの復権が躊躇いがちにではあるが、処処に透けて見える。学会オープニングの記念講演を行なったアルフォンソ・デ・フランチシス(1915-1989年)は、ロクリの発掘史・研究史を概観するなかで、ピナケス研究の功労者としてザンカーニ・モントゥオーロとともにプリュックナーの名前を挙げている(「その3」の文献11, p.17)。マラサの聖域に程近いチェントカメレCentocamereの遺跡では、数多のボトロス(犠牲式の残滓や奉納物の集積坑)の一つからアフロディテの名前の記された陶片が発見され、その周辺でのアフロディテ聖域の存在が取り沙汰され始めていた。

 こうした動きとともに、ルドヴィシ玉座設置場所に関する二つの新説が1980年代に現れる。両説ともに先のプリュックナーの仮説の影響が明らかだった。一つは、当時トリノ大学美術史講座教授だったジョルジョ・グッリーニ(1923-2004年)の1981年の論文(文献2)。もう一つは碑文学を専門とするマルゲリータ・グァルドゥッチ(1902-1999年)の1985年の論文(文献3)。どちらもマラサのイオニア式神殿をアフロディテ神殿とみなして展開しながら、それぞれ具体的な設置場所と《ボストンの玉座》の扱いに大きな相違が見られた。

 グッリーニはその頃マグナ・グラエキアとシケリア(シチリア)の建築史の研究に没頭していた。すでに1976年のマグナ・グラエキア学会で「ロクリの建築Architettura a Locri」と題した発表を行ない(「その3」の文献11, pp.409-439)、そこで報告されたマラサ地区のイオニア式神殿に関する新知見は、当該神殿建築研究の目覚ましい発展を印すものと評価された(「その3」の文献11, p.6)。

 それまでマラサの聖域では、1955-1959年のデ・フランチシス(当時カラブリア州考古監督局長官だった)の組織的発掘によって、オルシ、ペーターセンの発掘成果をさらに進展させるいくつかの重要な発見がなされていた。たとえば、ディオスクーロイ像の保存の良い方の頭部の発見(「その3」の図5とキャプションを参照されたい)、19世紀末の調査でオルシ、ペーターセンが突き止めていたイオニア式神殿の前段階の神殿跡よりもさらに古い前7世紀の神殿の痕跡の発見など。グッリーニは、独自に行なったマラサでの現地調査を基にデ・フランチシスの発掘成果を修正しつつ、イオニア式神殿をその円柱と柱頭の形態、ステュロバテスの築造法などから前480-470年に年代づけた(「その4」の図3は彼が復元したこの神殿の平面プランである)。この神殿を前5世紀前半に年代づける説はそれ以前からもあったが、グッリーニはその建材がシラクーサ産の石灰岩であることに着目し、当時発見されて間もなかったシラクーサのイオニア式神殿との関係を強調することによってロクリのこの神殿に新たな光を当てたのだった。

 前6世紀末に年代づけられるシラクーサのイオニア式神殿(確証はないもののアルテミス神殿ではないかと推測する向きがある)は、サモスやエフェソスで発展しつつあったイオニア式オーダーをシチリアへ移植しようとする初期の建築だった。マグナ・グラエキア初となるロクリのイオニア式神殿の建立には石材だけでなく、こうしたシラクーサの進んだ建築術も密接に関わっていたというのがグッリーニの考えだった。ピンダロスにも歌われたロクリの危機――前477年のレギオンのロクリ侵攻を前に市民たちが救済祈願としてアフロディテ祭儀のために娘たちを売春させるという誓いを立てるほど追い詰められた状況――に救いの手を差し伸べたのはシラクーサ僭主ヒエロン(一世)だったが、ヒエロンの援助はそれだけに終わらなかった。それはロクリの神殿建設にも及び、当時の新しい建築オーダーであるイオニア式オーダーに通じていた工人たちがシラクーサから石材とともにロクリに派遣され、彼らの指導の下にマラサの神殿は完成したにちがいない(「その3」の文献11, pp.422-436)。

 グッリーニは、こうしたマラサのイオニア式神殿建造をめぐる自説を下地にして、そしてこの神殿がアフロディテに捧げられたものとみなすプリュックナーの仮説を妥当として、《ルドヴィシの玉座》設置問題を解明しようとした。

 マラサの聖域には、イオニア式神殿東正面から東に15mほどの位置に大きな祭壇跡が残っていた(図1)。デ・フランチシスはこれをイオニア式神殿より前の時代のものとみなしていたのだが、グッリーニはこの祭壇にもシラクーサ産の石灰岩が使われていることを指摘し、層位学的に見てもイオニア式神殿と同時代のものとされるから、同神殿に付属する祭壇――すなわちアフロディテ祭儀に使用される祭壇――として建造されたものだと判断した(文献2, p.307以下;「その4」の文献5, p.299)(図2)。今は細長い矩形の基礎部分(2.64 x12.895m)が残るに過ぎないが、かつてはそこに切り石積みの上部構造が構築されていたはずだった。彼は、基礎の石組みの細かな計測に基づいて、その上に4層から成る上部構造を想定し、この大規模な祭壇建築を飾っていたのがルドヴィシとボストンの二つの彫刻だったと考えた(図3)。つまり、従来から根強くあった両彫刻を対の祭壇飾りとする説を踏襲しながらその場所を特定したのである。

 彼は先ず、《ルドヴィシの玉座》の失われた半月部分に《ボストンの玉座》(「その4」の図4-6)と同じような渦巻きとパルメットからなる下枠を復元し(図4-5)、二つのほぼ同形の彫刻がそれぞれ祭壇の短辺(南北)を縁取っていたと考えた。ルドヴィシの彫刻は祭壇の南側短辺(図6)、ボストンのそれは北側短辺を飾っていただろう。この配置だと《ルドヴィシの玉座》のヘタイラの表された翼パネルがイオニア式神殿の東正面に向かい合うことになる。そして、浮彫のヘタイラから神殿売春のイメージがかき立てられ、ロクリの危機に際しての市民たちのあの誓約が想起させられるだろう。このように、浮彫のヘタイラと神殿は互いに呼応するよう配置されていたにちがいない。なぜなら、危機を乗り越えてまもなく建造されたこの神殿には、ロクリの乙女たちの神殿売春の誓約の代用としての捧げ物という意図が含意されていたはずだったから。このようにグッリーニは推論した(文献2, pp.317-318)。

 だが、話が紛らわしくなるが、グッリーニは《ボストンの玉座》そのものが祭壇の北側を飾っていたと考えたのではなかった。彼は《ボストンの玉座》をローマ時代の模刻とみなしていた。彼の推測によれば、共和政末期ないし帝政初期にはすでに原作の傷みが著しく、ロクリからローマへの運搬に耐えないと判断され原作に忠実な写しが作られた。《ボストンの玉座》のローマでの発見場所はルドヴィシのそれと同じ地域、すなわちかつてのサルスティウスの庭園の跡地だったから、両彫刻はそこでもロクリで使用されていたのと同じように、対彫刻として再利用されていただろう。《ボストンの玉座》はその再利用のための模刻だった。先人たちがしばしば指摘しているように、《ボストンの玉座》の彫りに不確かな部分が見られ、《ルドヴィシの玉座》との微妙な様式的相違が目立つのはそのためなのだ(文献2, pp.312-313, p.317)。

 古代建築の専門家として細かな計測数値を駆使して展開するグッリーニ論文の読解は容易ではないのだが、筆者なりに大意をとると以上のようになろうか。従来から指摘されてきたロクリへのシラクーサの政治的・文化的影響を、イオニア式神殿の建造においても石材や工法の観点から改めて強調するグッリーニの見解は、たしかに傾聴に値しよう。しかし、その建造の動機に例の名高いロクリ市民の誓願が関係しており、それ故に祭壇飾りに神殿売春のイメージを喚起するヘタイラの浮彫が東を向いて設置されていただろうと推理に推理を重ねていくのは、どうであろうか。《ルドヴィシの玉座》と《ボストンの玉座》(というよりはその原作)が神殿東に位置する大規模な祭壇を飾っていたとする彼の見解は、この論文の題名がすでに明示しているとおり、一つの仮説un’ ipotesiに過ぎないように思える。

その7へ続く)

【文献】

  1. A. Stewart, Art, Desire, and the Body in Ancient Greece, Cambridge, 1997
  2. G. Gullini, Il Trono Ludovisi: un’ipotesi, in Ἀπαρχαί Nuove ricerche e studi sulla Magne Grecia e la Sicilia antica in onore di Paolo Enrico Aias, Pisa, 1982:305-318
  3. M. Guarducci, Due pezzi insigni del Museo Nazionale Romano: il Trono Ludovisi e l’Acrolito Ludovisi, in Bollettino d’arte, 41,1985:1-20

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図1: ロクリ マラサ地区の遺跡の航空写真 祭壇跡(赤の矢印) イオニア式神殿西側部分(白の矢印) [「その3」の文献10, fig.248に筆者が加工]

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図2: ロクリ マラサ地区の聖域遺跡平面プラン(Scala 1:300 da Gullini)茶色=前7世紀末~前6世紀初頭 赤色=前6世紀半ば~前6世紀末 緑色=イオニア式神殿の時期[「その3」の文献10, tav.XVに筆者が加工]

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図3: イオニア式神殿の祭壇の上部構造と祭壇飾りの下枠の復元案(グッリーニによる)  [文献2, tav.76]

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図4: ドヴィシの玉座主面浮彫「アフロディテの誕生」の半月部分にパルメット・渦巻装飾を復元した図(グッリーニによる) [文献2, tav.75-1]

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図5: ルドヴィシの玉座翼パネル浮彫「笛を吹くヘタイラ」の半月部分にパルメット・渦巻装飾を復元した図(グッリーニによる) [文献2, tav.75-2]

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図6: イオニア式神殿の祭壇装飾としてのルドヴィシの玉座浮彫の復元案(グッリーニによる)祭壇南側短辺部分 [文献2, tav.76とtav.75-1を筆者が合成]

篠塚千惠子