訳者からのメッセージ

西村賀子:西村賀子・吉武純夫訳、L・D・レノルズ、N・G・ウィルソン『古典の継承者たち――ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史』

 このたび、Scribes and Scholarsの邦訳『古典の継承者たち――ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史』をちくま学芸文庫に加えていただいた。1996年に国文社から発行された旧版の新装改訳版である。前回は原著第3版が底本だったが、今回は第4版に基づく。今回取り入れた新機軸つまり原著にない措置の一つは、本文中で言及ないし引用された古典作品の邦訳の一覧表である。国文社版から約30年の間に、じつに多くの著作が原典から日本語に訳された。これはとりもなおさず日本における西洋古典学の発展の証であり、翻訳に際してはこれらの邦訳の恩恵に与った。そのことにここで改めて謝意を表したい。また、共訳者の吉武純夫氏の発案により、巻末の図版にキャプションを追加した。それにより、当該図版が誰の何という著作の写本か、あるいは字体の変遷のようすなどが一目瞭然になった。さらに巻末の人名索引では、生没年などを記した。なじみの薄い人物への言及が本書には多いが、いつの時代の何をした人かが大まかに索引からわかるように工夫した。

 さて本書は、数多くの危機を乗り越えてきたテクストについて、それらがたどった長い道のりや、保存と伝承にたずさわった人々について語る。テクストの復元についても、その方法や約束事を多くの例とともに概説している。原著者の序文にあるように、本書のような初心者向けの文献学入門書は英語圏でも少ない。ましてや日本語で読める類書はほとんどない。B. ビショッフ(佐藤彰一・瀬戸直彦訳)『西洋写本学』(岩波書店 2015)はすこぶる有益ではあるが、文献学を学び始めたばかりの人にはやや専門的かもしれない。

 そんなわけで、本書を翻訳する機会を頂戴して以来、訳者には学ぶことがじつに多かった。文庫版訳者あとがきにもあるように、どんなに調べてもわからないことが前回の翻訳時には少なくなかったが、今回はインターネットのおかげでほとんどの疑問が解決された。

 本書の翻訳に取り組み始めた30年ほど前に一番わかっていなかったことは、目の前のテクストが先人たちの汗と涙の結晶であるという厳粛な事実だった。このことは、考えてみれば当たり前の事実なのだが、文献学の歴史というものに触れる前には、そこまでは想像力が及ばなかった。

 文献学者が直面する困難については本書で縷々述べられているため、初めてそういうことを知ったとはいえ、納得できた。しかし中世の写字生の苦労まではなかなか思い至らなかった。筆写に伴う苦難に思いを馳せたのは、C. H. ハスキンズ(別宮貞徳・朝倉文市訳)『十二世紀ルネサンス』(みすず書房 1989)を読んで衝撃を受けた時だった。写字室での作業はどれほど過酷だったのか。『十二世紀ルネサンス』はこう記す。

本を筆写するというのは、どんなによく見ても退屈な仕事だし、時にはずいぶんつらいこともあっただろう。オルデリクスのような熱心な筆写者でさえ、冬場は寒さで指がかじかみ、しばらく仕事を休まずにはいられなかった。十世紀のノヴァラの修道士レオは、三本の指が文字を書いている間、背中は曲がり、肋骨は胃袋にめりこみ、体中が痛むとこぼしている。(同書56頁)

 ハスキンズはさらにこう述べる。筆写にはたいそう時間もかかるが「一字、一画、一点を写すごとに私の罪はゆるされる」(同書56頁)との思いが、筆写という「称賛すべき労働」(同書55頁)を行なう修道士の心の支えになったと。そして任務を無事完遂すると、写字生たちは大きな解放感と喜びに満たされ、その素直な心情をラテン語で奥書に記した。以下、一例をあげる。

「終わり。神に感謝。…書いた者にはさいわいがありますように。…また書き写して良い酒が飲めますように。ふとったガチョウが与えられますように。美しい乙女をたまわりますように」(同書57頁)
「これで終わり。歌いに行こう。/これで終わり。遊びに行こう。」(同書57頁)

 12世紀には冷房も暖房も乏しく、おそらく栄養状態も不十分だったであろう。そんな環境で写字生が耐えた忍耐と孤独がしのばれる。書物を著した者は歴史に名を刻むが、その本を手で書き写した者は無名であることが多い。しかし私たちが古典の著作を読めるのは、かつて何時間も黙々と筆写に励んだ名もなき写字生や写字職人たちのおかげだ。歴史を作るのは偉人や英雄や天才だけではなかった。

 古典作品が後世まで残存できるか否かの関門はいくつもあったが、パピルスから羊皮紙に筆写された書物といえども、ほこりまみれの棚の上で手つかずのままの状態ではまだ無価値だ。だれかがそれを見つけ、ページを繰り、丹念に読み、価値を認め、書き写してこそ、その生命が輝く。写本の発見と解読にも波乱万丈の一つ一つの物語がある。そのことを教えてくれたのは、S. グリーンブラット(河野純治訳)『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(柏書房 2012)と、W. ノエル、R. ネッツ(吉田普治訳)『解読! アルキメデス写本』(光文社 2008)である。前者はポッジョ・ブラッチョリーニによるルクレティウス『事物の本性について』の写本発見のドラマを、後者はアルキメデス『方法』のパリンプセスト(再利用写本)の解読をめぐる経緯を詳細に語る。現在ある『事物の本性について』と『方法』のテクストはいずれも、これら二書で語られている一冊の写本のみに由来する。どちらのテクストもまさに「事実は小説より奇なり」ともいうべき、じつにドラマティックな驚くべき物語を秘めている。

 ところで私たちの目はどうしても西欧に向きがちだが、ほとんどのギリシア語テクストはもともと東方で保存されていた。東ローマ帝国はギリシア語の写本伝承にとって重要な役割を演じ、『古典の継承者たち』の翻訳過程ではビザンツ理解は不可欠であった。だが東方に関する私の知識は当初は不十分だった。アンナ・コムネナという史上初の女性歴史家の名も、本書の翻訳過程で初めて知った。その関連で今回じつに興味深くまた楽しく読んだのは、本学会会員である佐藤二葉氏の歴史漫画『アンナ・コムネナ』全6巻(講談社 2021-25)である。ビザンツについてもっと知りたい方は、何はともあれ、まずこれをご一読あれ。

 以上のように、本書が扱うのは幸いにも生き延びた古典作品であるが、その背後には二度と読めないテクストが死屍累々であった。F. バエス『書物の破壊の世界史』(八重垣克彦・八重垣由貴子訳、紀伊國屋書店 2019)は今日まで残らなかった著作の歴史を描く。これを読むと、死んだ子の歳を数えるかのような思いにさいなまれる。とはいえ、これでもかこれでもかと言わんばかりに、「あれも散逸した、これも断片しか残っていない」という無残な事実を突きつけられると、戦禍や為政者の狂気、宗教的弾圧、焼却、消失、湿気や虫食いその他もろもろの難を逃れ、かろうじて現代まで伝わったごく一部の書物がどれほど貴重でありがたいかが身に染みる。私たちには、忘却という我らの内なる破壊装置から古典テクストを守りぬき、人類の知の遺産を後世に伝える義務があるのだと思うと、背筋が伸びる。

西村賀子

書誌情報:
西村賀子・吉武純夫訳、L・D・レノルズ、N・G・ウィルソン『古典の継承者たち――ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史』(ちくま学芸文庫、2025年6月)