訳者からのメッセージ
朴一功・和田利博:エピクロス『自然について 他』
エピクロスと言えば、「快楽主義」を思い浮かべる人が多いであろう。ストア派が「禁欲主義」の代名詞であり、エピクロスはその立場と対照的である。われわれの日常の生活感覚に直結するこのような傾向の哲学は、歴史的にもめずらしい。哲学は、毒杯を仰いだソクラテスの時代から、あるいは、最初期(前六世紀)の、天を眺めていて井戸に落ちたタレスの時代から、少数の限られた人たちにしか関わりのないような特殊な営みのように見られるからである。
エピクロスを一行も読んだことのない人、ストア派の創始者ゼノンの名も知らない人、その人たちのあいだで、「ぼくはエピキュリアン、君はストイック」といったやりとりもごく自然に成り立つであろう。こうした会話は、エピクロスにとっても、ストア派にとっても名誉なことであるかもしれない。哲学の力が人々の生き方にまで届いているからである。しかしながら、流布した一般的呼称は、哲学の大事な部分を蔽ってしまう。考え方の誇張や固定化を免れないだけでなく、背景にある哲学的問題を見えにくくさせるからである。
学生時代に私はソクラテスに関心をもち、その方面の研究が中心となった。その関連でプラトンを読み、アリストテレスを読み、ギリシア哲学のいわば本流に身をゆだねる姿勢になっていた。今から35年前、私はケンブリッジに滞在し、ソクラテスについて書いた論文をバーニエット教授に見てもらったことがある。その時、意外にも、ヘレニズム哲学の勉強を勧められた。哲学的な問題を考えるにあたって、私が近年のさまざまなソクラテス解釈の上塗りのようなことをしていたからである。それは「時間の無駄(waste of time)」とまで言われたのを鮮明に覚えている。現代的な解釈や論争よりも、ヘレニズム時代の哲学にいっそう実り多い議論があるという助言だった、忘れもしない。
ストア派、エピクロス派、懐疑派、これらがヘレニズム哲学の三大潮流である。西洋古典叢書では、ストア派については、『初期ストア派断片集』(中川純男・水落健治・山口義久訳)が出され、懐疑派については、セクストス・エンペイリコスの『ピュロン主義哲学の概要』や『学者たちへの論駁』(金山弥平・金山万里子訳)が出され、いずれも完結して10年以上経過しており、エピクロス派の企画が望まれる状況であった。かくしてこのたび、エピクロス研究者の和田利博氏とともに、まずは本書を発刊する運びとなった。
これまでエピクロスのまとまった邦訳は、岩波文庫の『エピクロス──教説と手紙』(出隆・岩崎允胤訳、1959)しかなく、しかもその底本はベイリー(Bailey, C., Epicurus: The Extant Remains, Oxford, 1926)である。十九世紀に発見され、多大の困難のなかで今日まで断続的に復元されてきた『自然について』の貴重なパピルス断片群の訳は含まれていない。もとよりその間、欧米のエピクロス研究には大きな進展が見られる。『自然について』の復元断片に垣間見えるのは、自律的な成長発達をはらむわれわれの命の萌芽(種子)への、そして何よりわれわれの自己改善への、エピクロスの燃えるようなまなざしである(第二十五巻断片二九、三〇など)。快楽主義者であり原子論者であるエピクロス、彼の哲学のより豊かな奥行きに触れて、今回の翻訳に携われたことをうれしく思う。
朴一功