訳者からのメッセージ

中務哲郎:『ホメロス外典/叙事詩断片集』

 六十歳で簀を易えた鷗外五五歳の時の文章に「なかじきり」がある。

「老は漸く身に迫つて来る。
 前途に希望の光が薄らぐと共に、自ら背後の影を顧みるは人の常情である。人は老いてレトロスペクチイフの境界に入る。」

 私は三人の恩師を思い出す。私の訳したものが初めて公になったのはひとえに中村善也先生のお蔭である。先生は我々が大学院生の時にアリストパネス『平和』を読んでくださった。一年の授業で進んだのは七三三行までであったが、私はこの作品を大阪弁で最後まで訳して筐底に秘していた。数年後、松平千秋先生、中村善也先生、岡道男先生のお三方でギリシア・ローマの悲劇・喜劇を七篇、文学全集の一冊として出される時、編集責任の中村先生のみが三篇担当されることになっていた。当時私は三日にあげず先生のお宅にお邪魔していたが、先生が「三つも訳すのは大変や」と仰言るので、「『平和』なら訳してあります」と申し上げたところ、先生は大阪弁もそのままに、それを採用してくださった。『リューシストラテー(女の平和)』の向こうを張って邦題を『男の平和』としてくださったのも先生である。

 松平先生にはアイリアノス『ギリシア奇談集』共訳の際に、原稿の交換を通して翻訳のこつや訳注における繁簡精粗の呼吸を教えていただいた。このことがあって、後にアイリアノスのもう一つの著作『動物奇譚集』を訳すことになるし、『ヘシオドス全作品』を訳した時も、スコリア(古註)を傍らに『仕事と日』を読んでくださった先生の授業が基礎にあった。

 私は「なかじきり」を疾うに過ぎて「みせじまい」の歳になり、未だ岡先生の思い出につながる仕事をしていないことに気づいて些か慌てた。今回『ホメロス外典/叙事詩断片集』を訳したのはそのためであった。先生は、後に学位請求論文として発表される『ホメロスと叙事詩の環』の内容を二年に亘って講じてくださったが、これこそ私が在学九年の間に経験した最も学術的な研究授業であった。


 さて、この訳書は、『イリアス』『オデュッセイア』以外のホメロスに帰される「ホメロス外典」四作、九種類の「ホメロス伝」、前五世紀以前に作られた「叙事詩逸文集」から成る。

「ホメロス外典」は断片化が甚だしく、ほぼ完全な形で残るのは『蛙と鼠の合戦』三〇三行のみである。古代ギリシアには他にも『椋鳥合戦』『蜘蛛合戦』『鶴の合戦』等、英雄叙事詩のパロディがあったことが知られるが、これはわが室町・江戸時代に『十二類絵巻(獣太平記)』『精進魚類物語(魚鳥平家)』はじめ軍記物語のパロディが盛んに作られたことと似ており、解説では東西類似の面白さを説くことに努めた。

 プラトン『第七書翰』などの例外を除き、ギリシアの作家は自分を語ることが殆どなく、伝記も作家の死後数世紀を経て編まれることが多いから、伝記作者は作品内容から作家の伝を創り出すようなことを行った。ギリシアには、アレクサンドリアの文献学者らが作家解説として調査作成した伝記の他に、虚構の伝記の伝統があり、固よりその実在すら確証できないホメロスの伝記は虚構の産物である。真面目な学者による「ホメロス伝」も、虚構や伝説を材料にして編まれるのである。中でも『ホメロスとヘシオドスの歌競べ』はアゴーン(争い)の文学として構想された全くの作り物であるが、ニーチェとヴィラモーヴィッツという二巨人がその成立について争ったところから有名になった。歌物語のスタイルで書かれた偽ヘロドトス『ホメロスの出自・年代・生涯について』と並んで好読物になっている。

「叙事詩逸文集」もほぼ全体が失われ、テーバイ伝説圏を成す『オイディプス物語』や『テーバイ戦記』も、ペイサンドロスやパニュアッシスの『ヘラクレス物語』も、内容を窺うに足るほどの断片は残っていないが、後のギリシア悲劇や神話ハンドブックによって粗筋は復元できるのである。トロイア伝説圏の六詩、すなわち『キュプリア』『アイティオピス』『小イリアス』『イリオンの陥落』『帰国譚』『テレゴノス物語』については、プロクロスの『文学便覧』に由来する梗概が残るお蔭で内容・構想・特色まで推考できる。岡先生の『ホメロスと叙事詩の環』は、この六詩と『イリアス』『オデュッセイア』の関係を分析した精緻極まる研究であるが、当時私をも含めて、ギリシア語断片を確認しながらこの論文を味読した人はいないのではなかろうか。拙訳書は関連するギリシア語資料を一望の下に集めてあるので、改めて先生の論文に学ぶ便宜となれば幸いである。


 群小叙事詩の断片は読んで面白いものではないが、ホメロス作とされる二大叙事詩、とりわけ『イリアス』の崇高さを改めて浮かび上がらせてくれる。骨肉の争い、母殺し、復讐、呪詛、敵の脳漿を啜る、このようなシーンに満ちたテーバイ伝説圏の諸詩のなんと『イリアス』から遠いことか。トロイア伝説圏の六詩でさえ、生と死の交替・無尽蔵の食糧・泥の船・千里眼といった昔話的要素、仲間同士の裏切り、女性殺し、など『イリアス』には慎重に隠されている要素に溢れている。群小叙事詩に先立つ『イリアス』がこれほどの純化をなしとげていたことに驚くのである。


書誌情報:中務哲郎訳『ホメロス外典/叙事詩断片集』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2020年3月)

誤植 183頁及び逆丁35頁 図版のキャプション ペンシテレイア→ペンテシレイア