著者からのメッセージ

沓掛良彦:『ギリシア詞華集2』

亡き人を悼む詩──『ギリシア詞華集』第7巻によせて

 死は古来、愛、友情、別離、酒、旅などと並んで詩文学とりわけ抒情詩の主要テーマの一つである。亡き人を偲び、世を去った人を悼む心を詩歌に託して表現するということは、古来普遍的に見られる現象であって、いくつかの国や地域にあっては、それは抒情詩の一ジャンルを形成している。わが国の『万葉集』における挽歌、古典和歌における哀傷歌、中国古典詩における悼亡詩、またジャンルをなすとは言い難いが「誰々を哭す」と言った詩がそれである。死は生きとし生けるものすべてを襲う厳粛な事実であり、悲哀を生むものであるから、死を詠った詩、わけても愛する人、親しい人を喪った悲しみを詩句に託し、亡き人を悼む詩は読者の心を強く動かす。

 その衝迫の強さは、遠く時代を隔てた時代の作であっても変わらない。古今を通じて、いつの世にあっても肉親や愛する人、親しい人の死がもたらす悲哀や哀惜は同じだからだ。

 謀反の罪を着せられて刑死した弟大津皇子を悼んだ大来皇女の挽歌

  磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべく君がありといはなくに

といった歌や和泉式部の帥宮挽歌の一つ

  菅の根の長き春日もあるものをみじかかりける君ぞ悲しき

といった哀切な歌に心動かされない日本人はいないだろう。また親しい友を喪った人ならば、蕪村の追悼曲「北寿老仙を悼む」に宿る哀韻をわがものとして感じようし、わが子を亡くした親ならば、幼子を死なせた一茶の悲嘆の一句

  露の世はつゆの世ながらさりながら

に心ゆすぶられずにはいられまい。愛する妻を失った夫は、魏晋の詩人潘岳の「悼亡詩」に涙することもあろう。ことほどさように死者を悼む詩は人の心に強く作用する。

 ことはわれわれ身近な東洋の詩歌に限らず、遠く時空を隔てたギリシアに関しても同じである。正直に言って、古代ギリシア詩(抒情詩)は、われわれ遥か遥か後世の東洋の読者からははなはだ遠いところにある。翻訳を介しても十分に感動を呼びうる悲劇や、笑いを覚える喜劇にくらべても、抒情詩はやはり距離があることは否めない。古代ギリシア語とは言語構造も、言語感覚も、詩に関する観念も大きく異なる日本語の翻訳をもってしては、ギリシアの詩の真面目どころかその面影を伝えることは絶望的に困難であるということを割り引いてもなお、ギリシアの詩は感覚的に、現代の日本に生きるわれわれとはあまりにも懸隔が大きい。

 古典学の専門家を別とすれば、今日わが国でギリシアの詩を読む稀少にして奇特な読者は、おそらくはもっぱら知的関心で(あるいは「教養としてこれを知っておかねば」という半ば強迫観念に駆られて)、読むものと思われる。例えば、邦訳されたギリシアの合唱抒情詩とりわけわれわれにはおよそ馴染み難いピンダロスの祝勝歌などに深く魅了されたり、心を動かされたというような人がいたら、お目にかかりたいものである。大方の読者は、「ギリシア最高の抒情詩人」と聞かされているので、これは傑作と思って読まねばならぬという一種畏怖の念を覚えつつ、その偉大さを実感できぬままに、我慢して読むというのが実際のところであろう。私にしてもそうである。

 そんな中で、ギリシア人が生んだ詩の中で唯一、遠く時空を隔てたわれわれ現代日本の読者の心にも、時には強く働きかけ、また琴線をゆすぶることがありえるのは、ギリシア文学に独自の色彩を添えている数々の碑銘詩・哀悼詩ではないかと思われる。それはこれらの詩が人の死にまつわる作であり、そこに詠われた亡き人を悼み、思慕する念がわれわれにも共有できるからである。

  墓石は悲しみに沈んでこう告げている。
  「ほんのわずかな日々しか生きなかった幼いテオドタを、冥王が奪い去った」。
  すると幼い子がまた父に向かって言う。
  「お父ちゃま、悲しみをこらえてね。人間(ひと)は不幸なことがよくあるの」。

サモスのピリタスの作とされるこの素朴な本物の墓碑銘は、幼くして逝ったわが子を悼む父の気持ちを切々と伝え、はるか後世の現に生きるわれわれの心をも動かす。このような哀切な詩は碑銘詩・哀悼詩は他にもあまたある。

 このほど上梓された『ギリシア詞華集』第7巻は、実に750篇ほどの碑銘詩・哀悼詩、それに実際に墓に刻まれていた墓碑銘を収めている。言うまでもなくそのすべてが詩的・文学的価値をもつ傑作であろうはずがなく、常套化した表現を繰り返すだけの、生気を欠いた多くの凡作、愚作をも含むが、全体としてみると興味深い作がかなりあって、一読には値するものだ。

 『ギリシア詞華集』第7巻を通覧した人は、ギリシア人が異様なまでに人の死というものに関心をもち、また詩人たちが実にさまざまな死の形を詠ったことに一驚するだろう。私自身も翻訳していて、ギリシア人がこれほどにも死というもの、死の諸相に深く関心を持ち、それを詩という形で表現したことに改めて驚いた。碑銘詩・哀悼詩の一大集成であるこの巻は、まさに「死の万華鏡」だと言ってよい。そこには英雄や名高い人物の死から奴隷、いやそればかりかキリギリスだの蝉だのといった小動物の死にいたるまでが、多種多様な形で詠われている(尤も、人間ならぬ小動物の死を悼んだ詩は、愛猫を悼んだ江戸漢詩人の作や、雀の死を悼んだ一休和尚の漢詩などもあるが)。

 ここでは、英雄的な死、悲劇的な死、悲惨な死、奇怪な死、滑稽な死、馬鹿馬鹿しい死など、ありとあらゆる人間(や動物)の死が、時には荘重に、悲哀や哀惜の念を込め、時には嫌悪の情を込めて、また時にはおどけた調子で詠われ、描かれている。その中には呉茂一氏の名訳で世に知られたテルモピュライで斃れたスパルタの戦士たちを悼んだシモニデスの名高い碑銘詩もあれば、

  俺を殺した代わりに、親切にも墓を建ててくれるんだな。
  天の御恵みで、おまえさんも同じ親切にあずかってもらいたいわい。

などという碑銘詩の形をとった滑稽な詩もあるといった具合で、実に多彩な内容をもつ。

 碑銘詩の多くが実際に墓碑に刻まれることを目的としたものではなく、文学的創作であることも、この巻の文学性を高めていると言えるだろう。

 ギリシアの抒情詩は確かにわれわれには容易にはなじみ難いものだが、『ギリシア詞華集』のエピグラムは、とりわけ第7巻の碑銘詩・哀悼詩は、第5巻の愛の詩(性愛詩)と並んで、気楽に読めるものだ。ギリシアの詩だからといって、「これも勉強」などと固くならずに、気軽に頁を繰って、心にかなう何篇かをみつけてもらえたらと思っている。尤も訳者の力量不足、詩才の乏しさもあって、碑銘詩・哀悼詩の真面目を伝えることはかなわなかったが。

沓掛良彦(東京外国語大学名誉教授)
書誌情報:沓掛良彦訳、『ギリシア詞華集2』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2016年3月)