著者からのメッセージ

Kawashima, Shigenari, A New Interpretation of Sophocles's Oedipus Tyrannus: In the Light and Darkness of Apollo.

 本書は、川島重成著『アポロンの光と闇のもとに〔ギリシア悲劇『オイディプス王』解釈〕』(三陸書房、2004年)の山形直子さんによる英訳である。原著そのままの翻訳というわけではない。まず日本人読者を念頭に置いて書いた原著の「まえがき」「あとがき」などに代えて、充実したTranslator's Introduction、とりわけPat Easterlingケンブリッジ大学名誉教授によるForewordを掲載することができたのは望外の幸せであった。他には原著の「参考文献抄」を補填し、固有名詞、事項索引を兼ねたIndexを作成した。

 まずこの英訳のそもそものきっかけとなった小さな出来事を記しておきたい。2005年3月のある日、20名ほどの旅の仲間と連れ立ってデルポイのアポロン神域とパルナッソス山麓のオイディプスゆかりの「三叉路」を見学したあと、バスでアテナイに向かった。私はギリシア人ガイドのアンナ・ゾラと談笑するうちに、ギリシアでも蜷川幸雄演出の『王女メデイア』のタイトル・ロールを演じてよく知られている平幹二朗演出・主演の楽劇『オイディプス王』が、前年(アテネ・オリンピックの年)日本各地で上演され、特に鳳蘭演ずるイオカステが実は私の解釈に基づいて役作りされたことを伝えた。そこから私の『オイディプス王』解釈をかいつまんで英語で紹介する破目になった。それにアンナは期待していた以上の驚きと共感を示し、私の『オイディプス王』論を翻訳ででも読んでみたいと真顔で言ったのである。

 私が日本語で書いたものが、日本人以外の親しい人たちの魂に届く──そのような思いもよらなかったことがありうるのだと、その時初めて思い至ったのである。その後しばらくして、ロンドンで古典研究者として活躍中の山形直子さんに、彼女とも親しいアンナとのいきさつを漏らしたところ、急ぐ必要がないならと、思いもかけないほどの急転ぶりでアンナの“希望”が叶うことになり、その結果がついに日の目を見ることになったのである。

 山形直子さんの英訳は、原著のニュアンスをよく捉え、実に明晰で、ForewordでEasterling教授によって"... the ease and clarity of Naoko Yamagata's translation"とのお墨付きを得ていることを申し添えておく。

 ここで原著をお読みいただいていない読者も多いと思うので、本書が原著以来、『オイディプス王』の新解釈を主張する所以を二点に絞ってごく簡略に紹介しておきたい。一つには本悲劇において「テュケー」(「偶然」のニュアンスの運命)というキー・ワードが13回も繰り返され、そのうち12例はオイディプスによる自己の真相発見以前に用いられている(最後の1例は1526行に出てくるが、テキスト伝承上の問題の箇所である)。それ以後は「テュケー」に代わって、「ダイモーン」(神的力としての運命)の語が反復される。オイディプス(とイオカステ)の真実が露わになってからは、登場人物たちはもはや「テュケー」を口にすることはできなくなったのである。私はこの「テュケー」から「ダイモーン」への劇的ともいえるキー・ワードの交替に、人間の目に偶然と見えていたものは実は神的必然であったとの、詩人ソポクレスの明確な作劇法上の意図が読み取れると考える。

 二つには、以上のテキスト上の否定し難い事実の裏付けをもって、私はイオカステの真実発見が、従来考えられてきた1037-1044行(第3エペイソディオン)よりもかなり早く、オイディプスが自分の過去を物語る(771-833行、第2エペイソディオン)中で、彼がデルポイで受けた恐ろしい神託に言及したときに起ったと解釈する。その根拠として、私はイオカステがオイディプスの昔語りの前後で、2度にわたって、かつてライオスに下った神託に言及する(707-725行と848-858行)、その2度の発言を比較すれば、彼女の神託への態度に、表現は微妙ながら、内容上は確かな差異が読みとれることを指摘したのである。すなわち第一の言及においては、イオカステはアポロンではなく、予言者がいかに信用できないかをあげつらうが、第二の言及ではアポロンとその神託を明確に否定する。この拒否をイオカステはその後も、第3エペイソディオンの終わり近く、彼女が舞台を去るまで執拗に繰り返す。なぜアポロンを否定するのか。イオカステはオイディプスと自分の恐ろしい真実(アポロンの神託の成就)を知ってしまった以上、わが子オイディプスが生きてゆくためには、彼がアポロンの神託が成就したことだけは知ってはならない、彼が気付きさえしなければ、自分はその真相に目を閉ざして生きてゆけばよい、との決意を固めたからである。

 この新しい解釈は、従来のイオカステ像にかなりラディカルな修正を求めることになる。それは第3エペイソディオン977行におけるイオカステの「テュケー」への言及と、1080行におけるオイディプスのそれとの差異に端的に表れている。すなわち、オイディプスが未だ自分の真実を知らず、この期に及んでなお「恵み深きテュケーの子」(1080行)を自任し、あまりにも楽観的な自己信頼を貫こうとするのに対して、恐ろしい真実を知り、なおかつわが子とともに生きようとして、「人間にはテュケーの支配がすべて」(977行)と称し、神託などは気にもとめずに生きるのが最善と、ニヒルの霊気を湛えてオイディプスに迫るイオカステがここにくっきりと描き出されている(従来の解釈では、この時もイオカステは未だ真相に気付いていないとされる)。

 本書は以上に略述した原著の最も重要な主張をそのまま保持するが、この10年で新しく学び、再考した詳細については、本文中で修正したり、あるいは脚注に付加する形で取り入れることにした。それらの中から一点に絞ってここで短く紹介しておきたい。それは本悲劇の結末をどう見るかの問題である。私は(原著以来)真実を知って目を突いたオイディプスは、盲目のテイレシアスと同様に、アポロンの証人として立てられたと解釈する。新しいオイディプスの誕生である。本書ではこれをヘラクレイトスの「隠れたる調和」に通じるパラドックスであるとも表現した。

 しかし本悲劇の終りをめぐっては以下のような論争が今も繰り広げられている。例えばR. G. A. Buxton (1980)は「オイディプスは『リア王』におけるグロスターのように洞察力を獲得するが、視力を失う」と言う。これに対してM. Davies (1982)は「オイディプスが視力を失うのは、彼の洞察力の欠如を象徴しているとなぜ言わないのか」と批判する。これらを受けてH. P. Foley (1993)は「オイディプスが悲惨の中に威厳と自己認識を獲得すると見る評家たちと、オイディプスはこれまでと何ら変らず、何も学ばず、クレオンに対する完全な敗北に終ると主張する評家たちの中間に、自分の主張はある」と言う。さらにP. Burian (2009)は、オイディプスが最後にはパルマコス(贖罪の山羊)のごとくテーバイから追放されて旅立つであろうとの大方の期待を詩人が裏切ることの中に、オイディプスの性格について、また彼の挫折の意味について、最後的な判定を下すことへの詩人の拒絶、つまりこの悲劇が閉じられ完結したドラマとして扱われることへの拒否を読み取るべきだと主張する。『オイディプス王』初演から2450年以上も経ってなお、このように多様な解釈に開かれていること自体が、このドラマの卓越性を証言していると言えるのではなかろうか。

川島重成(国際基督教大学名誉教授)

書誌情報:Kawashima, Shigenari, A New Interpretation of Sophocles's Oedipus Tyrannus: In the Light and Darkness of Apollo; translated by Yamagata, Naoko. The Edwin Mellen Press. Lampeter, Ceredigion, Wales. 2014.