西洋古典学への誘い

西井奨:西洋古典と『走れメロス』

 ヤマザキマリ氏の漫画『テルマエ・ロマエ』の映画化により、古代ギリシア・ローマ世界への関心が高まりつつある。京都のとある書店でも、『テルマエ・ロマエ』の周りに古代ギリシア・ローマ関連の様々な書籍が陳列されているのを見かけた。こうした古代ギリシア・ローマ世界を舞台とした創作が注目されることは、西洋古典学への誘い水となるだろう。

 さて、日本人による、古代ギリシア・ローマ世界を舞台とした作品として、太宰治『走れメロス』を挙げないわけにはいかない。日本人なら知らぬ者はいないであろうほど人口に膾炙した小品である。現在は、「青空文庫」でWeb上で簡単に読むことができる。この作品におけるメロスの心理描写、鬼気迫る展開と結末のカタルシス、そしてそこで描かれるセリヌンティウスとの友情には、今改めて読み返してみても激しく心を動かされる。

 『走れメロス』の舞台となっているのは、僭主ディオニュシオスの統治下の、紀元前5世紀~4世紀のシチリア島シラクサ市である。作品末の「(古伝説と、シルレルの詩から。)」という注記から、太宰の創作の題材は、古代ローマの著作家ヒュギーヌスの名で伝わる『神話伝説集』と、ドイツの文豪シラーの詩『人質』であると窺うことができる。ただし太宰は実際のところ、ヒュギーヌスもシラーのドイツ語原文も読んだことはなく、当時入手したシラーの詩の日本語訳および注解(小栗孝則(訳)『新編シラー詩抄』)のみを種本としたらしい(なお、シラーがヒュギーヌスを読んで詩作したのは確かである。ただし、この伝説の受容とシラーの詩にも多少の問題がある。これについては五之治昌比呂「『走れメロス』とディオニュシオス伝説」『西洋古典論集』16 (1999), 39-59に詳しい)。

 シラーが参照したヒュギーヌスの名で伝わるテクストは、ギリシア・ローマ神話の要約集とでも言えるものである。その中でメロス・セリヌンティウス・ディオニュシオスらの逸話が詳述されている項目は、「友情で極めて強く結ばれた者たち」というタイトルが付けられており、この逸話の他に神話上のペアが名前のみ列挙されている。その中には、『イリアス』で名高い、かのアキレウスとパトロクロスのペアもある。彼らについても語りたいことは多くあるが、本エッセイで特に注目したいペアは、ウェルギリウス『アエネーイス』で詳しく描かれているニーススとエウリュアルスだ。

 『アエネーイス』は、落城したトロイアの将アエネーアスが、トロイアの民を引き連れて、イタリアにローマ建国の礎を築くまでの物語である。トロイア軍の若き戦士、ニーススとエウリュアルスは深い友情で結ばれていた。この二人は、イタリアでの戦いの最中、援軍を求めるため陣営を離れているアエネーアスを、敵軍の間を縫って呼びに行く使命を買って出る。

 二人は夜の暗闇の中、眠っている敵たちを順調に仕留めていくが、気付かれてエウリュアルスは捕えられてしまう。ニーススはエウリュアルスを救おうと、闇に紛れて次々と敵を倒す。これに対してニーススを見つけられず逆上した敵将はエウリュアルスを殺そうとする。その時ニーススは姿を現してこう叫ぶ。

me, me, adsum qui feci, in me conuertite ferrum,
o Rutuli! mea fraus omnis, nihil iste nec ausus
nec potuit; caelum hoc et conscia sidera testor;
tantum infelicem nimium dilexit amicum. (Vergilius Aeneis 9.427-430)
「わたしだ。手を下した人間はここにいる。わたしに剣を向けよ、
ルトゥリ軍よ。すべてはわたしの罪だ。その者は事を起こさなかった。
できもしなかった。天と秘密に通じた星々にかけて、これに相違ない。
ただ、不運な友を慕う気持ちがあまりに強すぎただけなのだ。」
(ウェルギリウス、岡道男・高橋宏幸(訳)『アエネーイス』京都大学学術出版(西洋古典叢書), p. 419)

 このニーススの言葉は、『走れメロス』においてセリヌンティウスがまさに磔にされようという時に、到着して目前の群衆を掻き分けて叫んだメロスの台詞、

「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」

を思い起こさせる。

 『走れメロス』の結末とは違い、『アエネーイス』では、結局エウリュアルスは殺され、ニーススは彼を殺した相手と刺し違えて倒れる。しかし二人の物語は、人の心を打つ話として今日に至るまで語り継がれることとなる。

 『走れメロス』のメロスとセリヌンティウスの友情に心打たれたなら、次は『アエネーイス』のニーススとエウリュアルスの友情に心打たれるのはいかがだろうか。

(なお、上記の邦訳では、二人のエピソードはp. 205-209, p. 404-420で読むことができる。)



Jean-Baptiste Roman (1792-1835), Nisus et Euryale
Wikimedia Commons

西井奨(京都大学・同志社大学・大阪大学)