古典学エッセイ

篠塚千惠子:表紙絵《ルドヴィシの玉座》(2021年10月掲載)に寄せて(その8)

 グァルドゥッチは、翼パネルに表されたヘタイラを通常のヘタイラではなく、ロクリ特有のアフロディテ信仰を具現する特別のヘタイラ――神殿娼婦ヒエロドゥーロス ἱερόδουλος――とみなした。先行研究で繰り返し引用されてきたロクリの神殿売春の伝承を彼女もまた想起したのだ。神殿売春が実際にロクリで行なわれていたことは古文献の記述からだけでなく、考古学や碑文学のデータからも裏づけられると彼女は考えた。

 彼女が挙げる古文献史料はこれまで研究者たちが引用してきたものと特段変わるわけではない。ペリパトス派の歴史家ソロイのクレアルコスの言説(Athenaeus,12,516A=FHG, II Fr.6)とユスティヌスの記述(21,3)である。

 グァルドゥッチは、クレアルコスが神殿売春の行なわれていた場所としてキプロス、リュディア、ロクロイ・エピゼフュリオイ、この三ヶ所しか挙げていないことに注目する。キプロスはヘシオドスが歌っているようにアフロディテの生まれ故郷として知られ、島の南西に位置するパフォスはアフロディテの最古の聖地として古代世界に名を轟かせていた。キプロス島北西岸の都市ソロイ出身のクレアルコスが神殿売春の土地としてロクリを挙げたのは、ロクリの神殿売春を伴うアフロディテ祭儀が彼の生まれ故郷キプロスでよく知られていたからにちがいないと彼女は考えた。そしてロクリとパフォス、それぞれのアフロディテ祭儀のあいだに関係があったことを推測した(「その6」の文献3, p.9)。パフォスで挙行されていたアフロディテ祭儀については、ストラボンや後世のキリスト教教父たちの記録からある程度知ることができる。とくにアレクサンドレイアのクレメンスの記述からは、それが秘儀的祭儀であり、アフロディテの海からの誕生が中心的儀礼だったことがうかがわれる。それ故、ロクリのアフロディテの秘儀的祭儀の源はパフォスのアフロディテ祭儀に求められると考えてもよいのではないだろうか(「その6」の文献3, pp.11-12)。

 ユスティヌスの記述は解釈が難しく、論争が多い。プリュックナーは彼流の解釈を施しながらこれに依拠してロクリ宗教におけるアフロディテ崇拝の重要性を主張した(「その4」を参照されたい)。グァルドゥッチは神殿売春の観点から読み直した。ここに挿入されているエピソードはロクリが国家存亡の危機に晒された二つの名高い歴史的出来事にまつわるものだ。一つは前477/6年のレギオンによるロクリ侵攻を前にしたとき、ロクリ人が勝利を手に入れるためにアフロディテの祭礼に娘たちを売春させると誓約したというエピソード。もう一つは、前4世紀中頃のルカニア人との戦いに苦しんだロクリ人がシラクーサ僭主ディオニュシオス二世に市政を委託した時のエピソード。このとき僭主は、かつてのレギオン侵攻の際に行なった誓約が不履行のまま終わったのだからこの誓約を更新せよと命じ、市民の既婚婦人や処女たちを着飾らせてアフロディテ神殿に集めさせたという。彼女たちの中から100人が籤で選ばれ、女神の聖域付属の売春宿に住まうことになった。だが、これは実は女たちが身につけていた美しい貴重品を奪い取るための僭主の策略だった。〈これら二つのエピソードは非常時の際の異例の性格をもった売春を仄めかしている。これは極度の危険が迫ったとき、通常は奴隷や外国人の女たちにあてがわれた習慣を自由人の女たちに広げたものだった。おそらくこうすることで女神により大きな価値が与えられ、女神のより広大な恩恵が得られると考えられたのだろう〉(「その6」の文献3, p.9)。

 ユスティヌスが伝える二つの誓約は結局果たされなかったとしても、〈これらの誓約はロクリにおける神殿売春の存在についてのクレアルコスの言説を裏づけるものであり、前5-4世紀における神殿売春の重要性を示す〉ものだとグァルドゥッチは考えた。そして彼女はさらに前3世紀初めにロクリの女流詩人ノッシスが作ったエピグラムも自説補強に援用する。一人のヘタイラが自らの身体の美しさによって稼いだ富でアフロディテ神殿に捧げた豪華な奉納像を称えたあの短詩である(『ギリシア詞華集』IX, 332。この短詩は「その4」のプリュックナーの説を述べたところで引用)。〈ノッシスの詩は、ロクリの神殿売春の存在を明確に証明するわけではないとしても、少なくともロクリにその当時富裕なヘタイラが存在したことを教えてくれる〉(「その6」の文献3, p.10)。

 では、碑文学と考古学のデータはどうなのか?グァルドゥッチは碑文史料としていわゆる「ゼウス・オリュンピオスの記録文書archivio di Zeus Olimpio」を挙げた。これは大きな円筒形の石箱teca di pietra に収められていた青銅板文書で、市壁に囲まれた古代ロクリ市の中央付近、小高い段丘の続く北側の市壁近くで1959年に偶然発見された(図1の5番)。現在39枚の青銅小板tabelleが知られ、これらを入念に調査したアルフォンソ・デ・フランチシスがカタログ付きの報告書を出している(文献1)。前4世紀半ばから前3世紀半ば頃までに年代づけられるこれらの文書の内容は、そのほとんどがゼウス・オリュンピオスの聖域で実施された財政活動に関した記録といえるものだった(ゼウス・オリュンピオスの神殿は未発見だが、石箱の発見地から距離的に近い図1の4番のいわゆる「カーサ・マラフィオーティの神殿」がそれに当たるのではないかと推定されている:文献1,p.143)。このことから、これらの青銅板文書は、当時のマグナ・グラエキア都市国家の政治・経済生活について重要な情報源を形成するものとして、ギリシア世界で発見された最も重要な碑文集成の一つとされる(「その3」の文献7, p.69)。

 けれども、文書の中には解釈の難しい文言が含まれ、論争の喧しいものが少なくない。グァルドゥッチが挙げた3枚の青銅小板(文献1のcorpus delle tabelleのno.23、no.30、no.31)もそうした問題含みの文書だった。それらに出てくるhιαρᾶν μίστωμα (no.23, no.30)、 ἱαρᾶμ μίστωμα (no.31)、すなわち「hιαραίの給料」と訳されるこの文言をどう解釈するか議論が戦われていた。グァルドゥッチはこれをアフロディテに仕えるヘタイラたちによって受領された給料を指す文言とする解釈に賛同し、もしこの解釈が正しければ、女流詩人ノッシスとほぼ同時代のこれらの文書は、ロクリに当時もなお神殿娼婦の習慣があったことを証言してくれるものとなるだろうと考えた(「その6」の文献3, p.10)。

 考古学データとしてグァルドゥッチが挙げたのは、マラサのイオニア式神殿に比較的近い海寄りのチェントカメレ地区だった。ここには市壁のすぐ外に前7世紀末頃に遡る遺構――U型ストアと呼び慣わされる特徴的な建物跡――が知られ、1950年代に発掘が行なわれていた(図1の11番:「その3」の文献7, p.27)。長い柱廊と一連の室(オイコスと呼ばれる)をセットにした特殊な複合建築で、海に面した側は大きな中庭の入り口をなすよう開放されており、長側面の各々に一連のほぼ同規模のオイコスが並んでいた。この建築は前7世紀末から前6世紀半ばまでしか使用されなかったが、その後すぐに広い中庭に犠牲式の残滓(動物を焼いた骨、陶片、貝殻、テラコッタ奉納小像)を埋めるためのボトロスが数多築かれるようになった。これまで優に350を越えるボトロイが発見されており、ボトロイを使用する習慣は前4世紀半ば頃まで二世紀以上もの間続いたことが知れる。ボトロイの一つからアフロディテへの献辞が記された酒器断片(前4世紀前半に年代づけられる)が発見されたことによって、このストアで崇拝されていた神をアフロディテとする考えが有力となった(「その3」の文献7, p.27, p.30)。

 U型ストアのオイコスに関しては、宗教的な共同饗宴が行われた室とする説と神殿売春のために使われた室とみなす説が出されていた。グァルドゥッチは後者の説を採用し、ロクリでは神殿売春を伴う特殊なアフロディテ信仰がすでに前7世紀から始まり、チェントカメレ地区の聖域とマラサの聖域が深く関係し合いながら発展していったと推測した。彼女によれば、〈マラサのイオニア式神殿の最も神聖な場所にあった《ルドヴィシの玉座》の翼パネルに表されたヘタイラこそ、前5世紀中葉に神殿売春の制度がロクリに存在しただけでなく、この地で重要視されていたことを示すきわめて有効な考古学的証拠になるもの〉だった(「その6」の文献3, p.10)。

(その9へ続く)

【文献】

  1. A. De Franciscis, Stato e societa in Locri Epizafiri (L’archivio dell’Olympieion Locrese), Napoli, 1972

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図1: ロクロイ・エピゼフュリオイの都市区域と聖域

1. マンネッラ地区のペルセフォネの聖域 2. マンネッラ地区のアテナ神殿 3. グロッタ・カルーゾの聖域 4. カーサ・マラフィオーティの神殿(おそらくゼウス神殿) 5. ゼウス・オリュンピオスの文書箱 6. 劇場脇の奉納品集積所 7. マラサ地区のイオニア式神殿 8. パラペッツァ地区の聖域 9. マラサ地区のゼウスへの奉納品集積所 10. 南マラサ地区のアフロディテ小祠堂 11. チェントカメレ地区のU型ストア 12. チェントカメレ地区の居住区発掘地域 13. Quote San Francesco地区の奉納品集積所 14. ストランギロ地区の奉納品集積所  [「その3」の文献7, p.21]

篠塚千惠子