古典学エッセイ

安西眞:「ブリーセーイスを使者に託すアキレウス」の図に寄せて

 最初にお断りの言葉を置きたい。この文を草した者は絵画についての専門的知識を持っていない。ごく普通の西洋古典学会会員で、古典文学・古典語学・文献学を専門としている。

 まず、総体としての絵の「読み解き」から始めたい。この絵は、「アキレウス、ブリーセーイスを使者に託す」の段(『イーリアス』1.326-48)をもとにしている。もっと細かく言える。この絵の内容は、同345−7行をもとにしている:

パトロクロスは、大事なともの言葉に従い、
頬の美しいブリーセーイスを陣屋から連れ出し、
(2人の使者に)手渡し、連れて行かせた。
絵画が準拠している文学テクスト箇所がこれほど細かく指摘できる文学絵画がどれほどの割合で存在しているのか、文責者は知らない。この特定が誤りでないことは、文が進むにつれて確認できるであろう。

 次に構図の概要。前景右端の美しい女性は言うまでもなく「頬の美しいブリーセーイス」、半裸でこちらを向いているのが「俊足のアキレウス」、同じく半裸で背中を向けているのが「メノイティオスの子パトロクロス」である。後景の群像については、あとで触れる。中景(?)の武装していない2名をどう特定するのかが悩ましい。特に、こちらに、つまりはこの絵を見る位置にいる人間に強い視線を送っているかに見えるブリーセーイスの目が、その先に捉えているのはだれなのか、何であるのか、という疑問との関連で悩ましい。

 この絵と、『イーリアス』のテクストそのものと、この絵の描き手が『イーリアス』のテクストから導き出した光景との関係を考え始めた最初の頃、この視線の先には、アガメムノーンの命を受けて、彼女を受け取りに来た2人の使者(タルテュビオスとエウリュバテース(320))が想定されていると思っていた。仮にこの壁画をひとつの特殊な集合写真と見るならば、カメラが置かれているべき場所にふたりが想定されていると思っていた。ブリーセーイスの目に、強い光が認められるようなので、その強い力がこの絵を締めている原動力ではないかと私が感じていたとも言える。もちろん、強い目の力の源泉は、この場合、敵意か、不安ということになるだろう。アガメムノーンが送り出した2人の使者が、確かに視線の先に想定されてはいるが、彼らはもちろん敵意や不安の直接の対象ではあり得ない。今まで彼女はアキレウスの陣屋に暮らしてきたが、その彼女をアキレウスから取り上げて、自分の陣屋の持ち物へと変えようとしている、ここに居る筈のない、そして、にもかかわらずこの絵の光景を支配しているアガメムノーンに向いている。だからこそ彼女の視線は敵意に満ち、不安を表現しているのだ。その感情の裏側に、彼女がアキレウスに向けている「愛着」ないしは「愛」が表現されている。以上が最初の感想をあれこれ検討している時におおよそ考えていたことである。アキレウスは、彼女とは違う所を見ているが、それは、自分が、同じくアガメムノーンに対して抱いている怒りを爆発させることがないようにという、防御の気持ちの表れである。パトロクロスは、ブリーセーイスの感情が、アカイア勢の司令部とプティエー部隊の間のいわば外交儀式とも言える引き渡しを、混乱に陥れることがないように(恐らくはアキレウスの命令に従って)ブリーセーイスの様子に気を配っている。

 以上が、最初の理解の中心である。しかし、その図像の読み方に問題があることは気がついていた。3人の「主役」の向こうに見える人物たちがその問題の原因である。彼らは全部で7名。そのうち5名が武装しており、2名が平時の装いをしている。そしてこの2グループはひとつの集団を構成しているようにも見える。この画家が、『イーリアス』1巻の内容をよく知っていたこと、彼の知っていた『イーリアス』が、我々の持っている『イーリアス』とほぼ同一のものであること、そしてその違わない内容をほぼ忠実に彼自身の理解で絵画に表現しているらしいことは分る。であるとすれば、誰が見てもアキレウスの部下たちと異なるいでたちの2名を、問題の行のすぐ近くで詩人が名をわざわざ我々に教えてくれている、2名の使者としてこの画家が描いているのだと考えるのが、本当は正しいのかもしれない,と思いながらも、そう考えていた。

 2名を、アガメムノーンの命を受けて、彼女を受け取りに来た2人の使者だとする同定を、私はこの絵を見たとたんに捨てたように思う。その理由は視覚的なものだ。この非武装の2名と彼らの背後の武装した5名の関係を、けして現実には争っていなくとも、本来緊張した関係にあるべき2集団(アカイア勢本部とプティエー部隊)に所属する者たちとして、つまり、適切な距離をもって離れて立つべき者たちとして、描く意図はこの絵には、この絵の構図のままでは、全く認められない。もし仮に、2名を第2列に、5名を第3列に配しようとする意図が画家にあったとすれば、まるで卒業クラス写真を撮ろうとする時のように、5名の列を2名の構成する線の直後に、低い台の上に乗せて配置したことになる。馬鹿げた想像である。従って、この考えは、即座に、排除されなければならない考えであった。ことは絵画であるので、その判断は瞬時のことだった。簡単に言えば、その瞬時の判断をもとに私なりの再構成を試みたのが、最初に説明した「解説」の核心である。

 少し事情があって、この絵をいつも眺めている、という状況から離れることができた。その間に、この絵を私なりに読み解く鍵が与えられたように思う。その間に、「透視図法」という、近代絵画制作のための基本技法に、私は思い当たることができたからだ。「透視図法」とは、要するにひとつの景色を眺めている人間の視野に映じているままに画面に再構成する「技術」である。美術教育を高校までに受け終わったような、私を含む平均的な日本人でもこの技術を身につけている。目の前から視界の彼方に一直線に伸びる道を描こうとすれば、その道の最も描き手に近い部分は、キャンバス一杯を占めるほどの幅を持つが、描き手の視点から遠くなるにつれて細くなり、それがあくまでもまっすぐに伸びれば、ついには、理論的には、点になるべく描かれねばならない、というあの「技術」である。これを獲得していなければ、画面に描かれるべき、あるものとある別のものの、奥行き上の距離感は、描き手には表現できない。古代人であるこの絵の描き手がそれをまったく知らないことは、2名と5名の関係の表現が証拠だてている。

 アキレウスの部下であるプティエーの兵士たちと、非武装の2名とが同一の集団に属するという誤った判断を瞬時にしてしまったのは、以上のような事情からである。つまり、奥行きを表現する技術の基本を、絵には全くの素人である私は持ち、一方、相当に高度な絵画表現上の伎倆の持ち主と見える、この絵の画家は持たない、という意外な不均衡が、私の読み間違いの原因であったのだ。

 このようなことを考慮に入れると、2人の非武装の人物はアガメムノーンの使者たちで、前列の3「主役」たちとは、数メートルほど奥にいるとの想定で描かれていると解釈できる。そのさらに後ろに、恐らくは10メートル前後の距離を置いて5名の武装したプティエーの兵士たちが居並んでいる、という構図になる。

 あまり長くなるのも考えものであるから、あと2点の指摘でこのエッセイを終えたい。5名の武装したプティエーの兵士たちは、いったいこの絵の中で何を表現する役割を託されているのか、という点がひとつ。もうひとつは、アキレウスの視線は何を語っているか、という点について。5名の武装兵士たちは、ひとまず、物語の中で言葉で表現されてはいないひとつの小さなエピソードを語っている。アガメムノーンの手による、ブリーセーイス取り上げが、この絵の正面のテーマである。このアキレウスにとっては堪え難い侮辱に、正面切っては抵抗しないでおとなしく彼女を手渡すのだ、と英雄は決断し、また自分の決意に従うようにパトロクロスに命じもした(1.335-8)。両名がここに半裸の姿で描かれているということは、そのようなこと(半裸)が『イーリアス』に於いて直接語られているからではない。絵の描き手がそのような形でその決断と命令を表現したといえるだろう。5名の武装したプティエーの兵士たちは、その武具によって、表面的には、英雄の決意と命令が、部下でかつ大事な「とも」でもあるパトロクロスを越えては広がらなかった、ということを意味している。しかし、同時に、はるかにそれを越えた意味をこの画面に与えていると私は思う。

 アキレウスを囲む「護衛者」たちは、実はすでに物語で言及されている。アガメムノーンと、結局は彼に同調した「幕僚」と、英雄との間の、不調に終わった会議からの帰路、戻る英雄をパトロクロスと彼の(=パトロクロスの)同僚たちが護衛した(1.307)。この絵が描く行(1.345-7)の直近には、彼らへの言及はないが、絵画化の際、彼らが画面に登場することには、だから不自然さはない。問題の行を含む文脈から、画家は彼らをこの絵に描き込むのが自然だと判断したのだ。そしてその判断は自然なものだと私には思える。ただ、それが5名であることは偶然であるとは私には思えない。

 プティエー勢は、「船の(=アカイア勢の)カタログ」の中で番外扱いされており(2.768-79)、カタログの定型的な情報を欠いている。このこと自体は、この船のカタログが置かれた物語上の位置からすれば、妥当な詩的判断とも言える。アキレウスおよび彼の手勢の戦場離脱はカタログの時点(2巻後半)で、決定的だからである。他方、その不在を補うかのように、物語進行の極めて大事な局面、つまりパトロクロス出陣の巻(16巻)に於いて、プティエー勢のカタログ的情報が与えられる。そこでは、プティエー勢は、50人の、船上ではオールをこぎ、地上にあっては戦闘員となる乗組員を乗せた船50隻から成っており、さらには、パトロクロス出陣を援護すべく、アキレウスを除くその2500名全員が出陣に加わり、その全員は、5隊に分けられ、5人の部隊長がその5隊を指揮した、ということが我々に知らされる。もちろん、彼らの出陣の場面は、彼らの武具装着の場面を含む(16.124-67)。半裸のパトロクロスと武装した5名の対比は、この絵の鑑賞者が『イーリアス』の全体を良く知る者である、と想定すれば、半裸のパトロクロスは、たんに、彼が英雄の命令を忠実に守ったという、テクストの絵画的実現を行なっているばかりではなく、武装したパトロクロスを思い起こさせて、物語の進行に鑑賞者の心を向けさせる力をも持つ、とも言える。半裸のパトロクロスはそもそも英雄として我々が想像する「彼のあるべき姿」からすれば異常だからである。同じような理由で、半裸のアキレウスと武装した5名の対比が見る者に促すのは、ヘーパイストス神による武具制作と、アキレウスの盾の描写と、それらの装着の場面へと、すなわちこの物語詩の大団円の開始部へと鑑賞者の心を誘う。『イーリアス』冒頭のあるひとつの行をもとに画面を構成した画家は、この巨大な物語の発端と終焉を表と裏で描いているとも言える。

 最後にアキレウスの視線に触れたい。ブリーセーイスとパトロクロスの視線と体の向きについては、中段の2名の非武装登場人物の同定を変えることによってこのエッセイの最初の理解がどう変化しなければならないかを、このエッセイを読まれる方々が検討して下さるよう望みたい。しかし、使者に該当するのが、中段の2名の非武装の登場人物であろうと、カメラの位置に隠れているかもしれない人物であろうと、アキレウスの視線が、明白に語っているように見えることがある。ひとつは、先に触れたことである。ブリーセーイスが自分の手から取り上げられ、アガメムノーンの手に渡る光景を見て、自分が爆発するという事態を避けたいという彼自身の意思である。これが描かれているという可能性については、文責者は確信が持てる。さらに加えて、やや使者とは反対側の、やや中空に向けた、その視線には、次のようなことが含意されているかもしれない、とも思う。アキレウスは、アガメムノーンとの口論の中で、この総大将を「恥知らず」であると、2回口にする(1.149, 1.158)。恥を知る心(ギリシア語でアイドース)とは、「英雄時代」を社会的に支えた「思想」であった。そのような「恥」を欠如させた人物は、英雄社会のあるべき構成者として、ましてや、アカイア勢全員の生命を預かる責任ある立場にある人間として失格である、というアキレウスの側の評価がその繰り返された「恥知らず」という批判に含まれていると見てよい。ブリーセーイスの予定される引き渡し場所、恐らくは中央の側に立つ非武装の人物の居る場所から意識して目を逸らしているかに見える英雄の姿は、そのような人物(「恥」を知らないアガメムノーン)のことを思い起こすようなことをしたくない、と彼が念じていること、その視線から読み取り可能ではないかと私は思っている。もちろん『イーリアス』の詩人は、自身の構成意図に基づいて、アガメムノーンにそのような難詰に相応しい言動を割り当てているのだ。そして、その我欲しか見えない、そういう意味では、存在として羊や狼やライオンなどの水準にあるとも言える総大将に対して、いくらか大人気ない批判をアキレウスにさせているのも、そのアキレウスが自分の発した非難の言葉故に孤立無援になるような結果を、詩のはじまりで作り出しているのも、詩人の確かな計算に基づくのだと思いたい。残りの2人の主役の視線の向きも、「目をそむける」と言うかぎりにおいて、私が英雄の姿勢と視線の向きから私が想像していることと矛盾しない。彼らは確かに、ともに中央の非武装人物のもとでなされようとしている引き渡し行為から目を背けているかのごとく描かれていると言うこともできるのだ。

 『イーリアス』の私の読み方が、あるいはこの絵の読み方が、途方もないものであるかどうか、このエッセイの読み手が自分の目と理解力で判断して下さればうれしい。どうしてもギリシア語の知識が必要というわけではない。いくつか出ている邦語訳で判断の材料は十分得られると思う。

 付記:このエッセイには、もう一人見える登場人物への言及が欠けています。左端に黄色い衣装を纏った、女性らしい「人物」のことを言っています。私には、この「人物」のことを除いた主要部分については、以上のような解説をつけるのが、適切だと思えましたが、この人物をどんなつもりで画家がこの絵に描き込んだか、その意図を察すること、それを今記した部分とどう調和させるかということに最初まったく自信が持てないでいました。

 恐らくこのあたりであろうと、一応の「腹」が今はできましたので、とりあえず、主要部についてのエッセイを載せてもらうことにします。できれば、少し時間的余裕をHP編集委員会からもらって、同じ題名の「その2」の形で付加していただくことにしたいと願っています。

安西眞