コラム

中務哲郎:国際学会 The Processes of Dying in the Ancient Greek Worldに出席して

 9月1日2日、京都修学院の関西セミナーハウスにて国際学会が開催された。京都大学白眉センターと文学研究科西洋史学専修の共催であったが、日本西洋古典学会も協賛していたから、というより、テーマに惹かれて私も参加した。学会の企画・準備から運営に至る白眉センター・藤井崇さんのアレンジメントは完璧で、国内外で活躍中の若手・中堅学者の発表は多彩で意欲的、西洋古典学会とも重なるところの多い聴衆の質問も活発であった。

 喜劇詩人のアレクシスは最晩年、よぼよぼと歩いているのを見とがめられ、何をしているのかと尋ねられて、「ゆっくりと死んでいるところさ」と答えたという。このアレクシスが100歳、ソポクレス91歳、イソクラテス94歳、ゴルギアス107歳、長寿を極める文化人をよそ目に、古代ギリシア人男性の平均寿命は45歳くらいであったとされるから、戦争による死の多かったことが想像される。さらに女性の平均寿命がそれより9歳ほども下がるのは、産褥死をはじめ危険な病気に取り巻かれていたからであろう。現代人より遥かに死に近いところにいたギリシア人は死について考えることも多かったに違いない。英雄は華々しく戦って死ぬが、そのkleosが永遠に伝わることを願った。詩人は作品の永生を信じ、哲学者は魂の不死を説き、来世では優れた先人に会えるとする思想を展開した。この世の生を罰と観じ、生よりも死が望ましいとするペシミズム。神に愛される人は夭折するという慰め。

 死についてはギリシア文学を通して考えるのが習慣のようになっていた私も、死のプロセスということを意識したことはなかったので、今回の学会のテーマはまことに新鮮であった。死のプロセスは当然死の前後を含みもっている。死に行く「わたし」の問題であると同時に、残された家族や友人、病を診る医師の問題にもなって来る。個人の問題から文化の問題へ、そしてやはり哲学の問題に帰する。放射線被爆による場合のように死のプロセスを強く主題化させる死があるという視点も今回教えられた。死をいかなることのプロセスと捉えるか、それを仏教学の立場から考えるのが、アレクシス的老人ではなく白眉センターの若い研究者であることも興味深かった。

 学会出席にはもう一つ目的があった。日本西洋古典学会でも、若手研究者の活躍の場を広げるという主旨からポスターセッションの実施を決めたのだが、私自身はポスターセッションなるものを実見したことがないので、様子を見学させていただいたのである。残念ながら昼食を挟んでの一括討論には参加できなかったが、午前中の一人8分10人のポスター報告はいずれも緊張感溢れ、大きな研究のエッセンスを見る思い、従ってより大きな発表にしたものを聞きたい、と思えるものが多かった。日本西洋古典学会ではもちろん日本語で行われるが、研究者を目指す人は是非ポスター報告に応募して、経験を積んでいただきたい、と思ったことであった。

中務哲郎