Q&Aコーナー
質問
ギリシャ・ローマの文学作品を読んでいこうと考えております。それに関して、2点、お聞きしたいことがございます。
(1)読書の前段階として、理解を深めるために「これは読んでおくべきだ!」という概説書や入門書がありましたら、ご教示いただきたく存じます。(高津春繁氏の「ギリシア・ローマの文学」や岩波文学講座をはじめ、数多の書物があるため、どれがおすすめかを伺いたいです)。
(2)ホメロスの叙事詩を形成する「叙事詩的技法(描写、カタログ、逸脱、比喩)」や、「ring composition」などについて学べる書籍/論文はありますでしょうか。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
(質問者:Monteverdi様)
回答
お問い合わせの方へ.
ご返事を書く人間は,西洋古典学の領域としては,極度にギリシア史.ギリシア古典の側に傾いた者でありまして,理想のご返事とは言えないかもしれません.でも,お寄せの文面からすれば,以下のごとき返事でも許されるのかもしれません.
古代ギリシアの世界,とりわけ叙事詩の世界についての適切な入門書:
M.I.Finley: The World of Odysseus (いくつかの言語による, いくつかの出版社が出した版がありますが,下田立行訳,岩波文庫版(1994)が最も手軽に読めます.)
原本が成立したのは20世紀半ば過ぎのことですが,著者は,20世紀後半以降のホメロス研究を席巻したホメーロスとはすなわち口承詩伝承(アイヌ語によるユーカラとほぼ同じ原理の上に立つ詩,前10世紀~前8世紀に伝承がなされたと想定されています)の総体に付された名称に他ならないという学問上の潮流を十分に承知し,その基本線を守った上で,ホメーロスの2つの叙事詩は,前10世紀~前8世紀のギリシア人社会(文明史的には部族社会)を背景にした作品世界に他ならないことを,私たちに示そうとしてくれています.
この簡単な歴史的位置付けからも理解できるように,古代ギリシアの叙事詩は,文明史的に言って,広くは歴史的に言って,過渡期にある芸術が,熱気を帯び,高く飛翔する典型なのですが,一言私からのコメントを付するとすれば,欧米の古典文学研究者たちは,ヨーロッパの曙に登場する英雄たちが,部族社会人を背景にした,つまりは,野蛮人に他ならない,という明らかな事実を受け入れられないという,我々日本人の古典学者から見れば知的な怠惰という他ない理由で,彼の70年以上前の優れた仕事を十分にはこなしきれていない,と見えます.
もう一つの適切なギリシア人の世界への入門書:
E.R.Dodds: The Greeks and the Irrational,Berkeley, California 1949 (邦訳『ギリシア人と非理性』みすず書房 1972)
上に記した書誌情報だけで,この本の背景がほぼ分かるでしょう.第2次大戦で,ヨーロッパの全域と,日本が壊滅的打撃を受けました.そしてヨーロッパの精神的主柱であった古典学も同じ目に遭いました.綺麗事を言うと,合衆国は,その事態に責任を感じて,多くの,主としてヨーロッパの大学と研究者に対する莫大な経済的援助を行い,同時に,まだ,発展途上の状態にあった合衆国の大学の古典学研究の向上に向けて投資を行いました.その一環として,California大学Berkeley校が高名な英国人古典学者を招聘し,集中講義をお願いし,その草稿をそのまま出版した.これがこの本の成立事情です.その鍵となったのは,一方に理性的な社会.つまりは,法による裁きと,法に基づいた選挙と,法による統治を原理とする近代ヨーロッパ社会= アテーナイの法社会と,そのほぼ全面的な崩壊という現実の光景.もう一方に,その理性的社会が押し潰した(とても残念な表現ですが,歴史を考えればそういう他ない),「恥の文化」を支柱にした部族社会です.上記Finleyの描く,ホメーロス叙事詩の背景となった,前10-8世紀の世界には確実に生きていたはずの原理です.その原理は,アキレウスの中には明らかに生きており,ヘクトールの中にも生きていた,とホメーロスには歌われています.プラトンの中にも生きていた,と私は個人的には思いますが (例えば『国家編』に見られる「哲人王」という概念の中に),アテーナイでポリス社会が理想的な調和に達した段階では,現実的には死んでいたと,プラトンも考えていたことは間違いなく,Dodds先生もこの本の前半で繰り返しそう記しています.そして確実に見えることは,Dodds先生は,そのヨーロッパとその古典学の廃墟を前にして,身の回りに,そしてこの本の元になった原稿を読み上げた当の学生たちの中に「恥の文化」を体現しているような人物を持たなかったろうということと,もう一方で私たち21世紀に生きる日本人は,あるいは日本人古典学者はどうなんだろうかと,深く巨大な問いを投げかけてくれる著作です.ぜひご一読ください.ギリシアを読むということの巨大な意味が理解できると信じます.
ちょっとだらしがない文章ではありますが,お問いかけの答えになっているでしょうか.
(安西眞.日本西洋古典学会HP運営委員会,瀬戸内古典語教室)