Q&Aコーナー
質問
こんにちは。
ローマ市民権についての質問です。
ローマで市民権を公示したり証明したりするにはどのような方法がとられたのでしょうか。
聖書において、パウロがローマ市民権を保有していたため、ローマ軍からの拷問を免れることができた、との逸話がありますが、ローマ軍はどのようにしてパウロの市民権を確認したのだろうか、との疑問を持ちました。
また、広大な領域を有していたローマ帝国では、出身地から遠くはなれた場所で市民権の証明を求められる場面もあったのではないかと想像します。
よろしくお願いいたします。
(質問者:上参郷勇輝様)
回答
興味深いご質問ありがとうございます。新約聖書『使徒行伝』16:16-40や22:22-30で、パウロはローマ市民であったため、ローマの官憲や軍人から暴力を受けずに済んだとあります。パウロがどうやって市民であることを証明できたかについての疑問、実に重要な論点に思われます。
ローマ市民の男の子は、15・6歳程度で成人式を迎えたようです。さまざまな儀式をおこなうこのイベントの際、たとえば首都ローマに住む市民の場合は、カピトリウム丘のユピテル・オプティムス・マクシムス神殿で新成人がローマ市民であることが確認されたと考えられています。このローマの成人式については、パウロの『ガラテア書』3:27の「キリストを身にまとう」という言葉が、古代ローマの成人式で「成人男性のトガtoga Virilis」を身にまとう儀式に由来するという論文、J. Albert Harrill, Coming of Age and Putting on Christ: The Toga Virilis Ceremony, Its Paraenesis, and Paul's Interpretation of Baptism in Galatians, Novum Testamentum 44-3, 2002, pp. 252-277(特に255-266)の解説か、長谷川博隆『古代ローマの若者』三省堂、1987年、51-69頁の解説があります。
突然お話を脱線させたようで恐縮ですが、この成人の儀式の際、市民身分が確認された男子は、その証明書を神殿に保管し、写しを自宅に持ち帰った可能性があります。
ただし残念ながら、こうした一般市民の市民権の証明書のようなものは、一枚も物理的に残っていません。おそらくはパピルスや木板のような、腐ったり燃えたりしやすい、つまり現代まで残存しにくい素材だったのでしょう。その代わり、古代ローマの軍隊での軍役を勤め上げ、その見返りにローマ市民権を与えられた退役軍人の証明書は金属で作成されたので、たくさん現存しており、たとえば慶應義塾大学が所蔵しているローマ帝国軍人の退役証明書は、WEBサイトで写真公開されています(https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/12484)。
それでは、軍人ではない一般市民はパピルスか木板に記された市民権証明書のようなものを旅行に携えていったのかというと、そういったことがどれほど一般的に行われたかは疑わしいのです。というのも、紀元後79年のヴェスヴィオ火山噴火で埋もれたローマ都市ヘルクラネウムの遺跡から、ユスタという女性が生まれつき市民権をもっていたか、それとも奴隷であったのかということを争う、裁判記録の一部が記された木製書板が発見されています。裁判の内容については桶脇博敏「「名無しの権兵衛の娘」と自称する女」『史論』53巻、2000年、1-27ページ(https://twcu.repo.nii.ac.jp/records/15798)や五十君麻里子「ユスタ事件再考」『ローマ法雑誌』5号、2024年、1-64ページ(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/287802)といったオンラインで読める論考で解説されているので、そちらに譲ります。ここで重要なのは、この記録からは、ローマ市民権をめぐるこの裁判で、原告・被告ともに、別にパウロのように旅行中でもないのに、証明書的なものを示すのではなく、裁判に連れてきた証人の証言に頼って争っているのが読み取れることです。つまりある人物が生まれたときにローマ市民であったかなかったかについて、市民権の証明書は役に立たなかったか、あるいはこちらの方があり得ると私は思うのですが、多くの一般市民は市民権の証明書を普段から持っていなかったり、裁判のような大事な折にも、役所や神殿に記録を取りにいくのが一般的な行為ではなかったりしたのかも知れません。そのため、旅行のためにどれだけの市民が証明書を入手・携行するか、私は疑っています。
ネロ帝の時代に書かれたとされるローマ時代の小説『サテュリコン』57章には、宴会中に初対面の人と口喧嘩を始めたとある人物が、奴隷の境遇から身を起こした自分が今ではローマ市民権を獲得し、いっぱしの市民として信用されていることを誇って「さあ、いまから広場に行こう。そして金を借りるとしよう。すぐお前はわしのこの鉄の指輪が信用されとるのに気づくだろう。」(国原吉之助訳・岩波書店1991年、97ページ)と啖呵を切るシーンがあります。ほぼ同時代に書かれた大プリニウスの『博物誌』33巻33節によると、元老院議員身分や騎士身分はそのしるしとして金の指輪、それ以外のローマ市民は鉄の指輪をするとあります。すると、鉄か金の指輪があればローマ市民とすぐわかるのでしょうか。さきほどの『サテュリコン』の前後の文章を読んでも決してそうではなく、この人物は広場の商人たちから自分がこれまで獲得してきた信用がモノを言うことを強調しています。
というわけで、パウロのような旅行者がどのようにして、自分がローマ市民であると証明できたのか、はっきりとはわからないと言わざるを得ません。もしかしたら、パウロは用意周到にもパピルスや木製の証明書を携えていたのかも知れません。ちなみに、パウロがローマ市民権で拷問を回避したというエピソード自体を、『使徒行伝』著者の創作だと考える研究者も存在します(保坂高殿「ルカとローマ市民権-『おそれ』のモチーフがもつ文学的機能の考察から-」『聖書学論集』22号、1987年、117-150ページ)。
(回答:大谷 哲)