Q&Aコーナー

質問

 古代ギリシアの固有名詞の日本語表記が書籍で異なるのをよく目にします。特に気になるのは「μ」音の「ム」と「ン」、「φ」音の「パ」と「ファ」です。たとえばヘラクレスの父は「アムピトリュオン」や「アンフィトリュオン」と表記したり、まれに「アガメムノン」を「アガメンノン」と表記したりしますよね。西洋古典学的により正確なのはどちらか教えてください。ちなみに「φ」音は基本的に京大出身の学者は「パ」、東大出身の学者は「ファ」と表記すると認識しています。こうした違いは学閥も関係しているのでしょうか。

(質問者:zerase様)

回答

 古典ギリシア語を教える際に、ギリシア・アルファベットの字母の発音を教えるにとどまらず、固有名詞の日本語表記を教育(強制)する教師がおられるのかどうか私は知りませず、これはあくまで個人的な経験・感想としてお聞きください。

 本ホームページに渡邉雅弘「葉皮休綠斯、綠骨列由私、岳私仙迭由私つて、誰のことか、わかりますかー古典受容における人名表記の問題―」なる記事がありますが、それによると、エピクロスの異表記は56種類ほどあるそうです。( https://clsoc.jp/agora/essay/2023/230220.html )。また、有名な話題にGoetheの日本語表記があり、それは100種を超えるという。(青木宏一郎『鷗外の花』)。これは、外国語を日本語で表す場合の先人の苦労の跡を偲ばせると共に、表記を導く規則のようなものがないことを示しているのでしょう。話は逸れますが、スマートフォンをスマフォでなくスマホと略しても文句を言う人がないのは、省略のための規則などなく発音しやすさが優先されているからでしょう。

 ギリシア語のφについては、H. W. Smyth, Greek Grammarはgraphicのように発音しなさいと、W. S. Allen, Vox Graecaも英語のfootの発音だと記しています。しかし、高津春繁『ギリシア語文法』は、φ, θ, χは英独仏のph, th, ch の如き摩擦音ではなくp, t, kの後に軽く気音hがついた無声帯気音だとして、Τισσαφέρνης, Φίλιπποςをティッサペルネース、ピリッポスと表しています。高津先生は『ギリシア文学論集』でもソポクレース、ピロクテーテースを採用しておられます。田中美知太郎・松平千秋『ギリシア語文法』も同様に説き、端的にドイツ語のPass, Tau, Katzeの音だとしています。最新のマルティン・チエシュコ『古典ギリシア語文典』も、φは強い調子で発音され、気音を伴う英語pityのpの音だと、前5世紀末の時代を特定して説明します。

 但し、R. Kühner-Fr. Blass, Ausführliche Grammatik der griechischen Spracheによると、死んだ言語の字母の発音を正確に規定するのは極めて困難で、多くの場合全く不可能だとされます。

 「ム」か「ン」かについては、συν-の後にμやπ, β, φ(唇音)が来るとassimilationを起こしてσυμ-となりますので、表記上を重視する人は「ム」、元の姿を意識する人は「ン」とするのではないかと私は推測します。「アガメンノン」というのは見たことがありません。古典テクストを翻訳する人は、先人の仕事を見ながら自分の好みに合った表記法を選ぶのではないかと私は思っており、学閥は関係ないと思います。

冗語。

  好みに合った表記法を選ぶのではないかと記しましたが、叢書や全集の一部として仕事をする場合には、全体の方針に従います。私自身はアムピトリュオンであろうがアンフィトリュオンであろうが全く気になりません。もう一つ似たようなことで、母音の長短をどうするかという問題があります(アンピトリュオーン)。これについてはさる編集会議で、理屈にならぬような理屈を持ち出して言い合いをしなければならなかった嫌な思い出がありますが、これも西洋語だとtranscribeすればほぼ問題なく済むところ、これに神経を使わねばならないのは日本語の損なところだと思っています。私自身は全体方針に背かぬ時は短音表記を基本にしていますが、それは、どうしても長短が判明しない場合があるのと、ギリシア語本文の趣を陸に移せもしないのに、長短のみで頑張っても仕方ないと思うからです。しかし、せめて長短だけでも正確にするという立場もあるでしょう。

(回答:T. N.)