Q&Aコーナー
質問
古代ラテン語と呼ばれるものはいつ頃からいつ頃まで使用されたか、古代ラテン語を細かく時代区分すればどのようになるか、具体例とともにお教えください。
(質問者:今井敏正様)
回答
(回答前半部)
「古代ラテン語」という用語は使われないもので、それは単に「ラテン語」を意味するものと解釈して回答する。
質問の前半を「ラテン語はいつ頃からいつ頃まで使用されたか」と解釈するなら、それへの回答は、「使用」の意味次第で変わってくる。文語としての使用だけなのか、口語としての使用までも問うのか。
文語として、つまりラテン語が文字と共に使用されている物的資料の存在を問うのであれば、その「始原」だけならばほぼ推測できる。しかしその「終末」は、ラテン語は現在も文書では使用されているのだから、まだ来ていないと言うほかはない。
その「始原」は、紀元前7世紀ころと考えておけば良い。ラテン語の最古の資料はその年代のものとみなされる石や壺に彫られている単語で、その紀元前7世紀ころからラテン語は歴史に姿を見せ始めたからである。ただし、それが文献となって現れるのは紀元前4世紀中ころまで待たねばならない。
自己の作品を現代まで残しえた最初の文人はプラウトゥスで、彼以前の人の著作は断片として他者の書に引用されて残っただけであった。プラウトゥスは前224年あたりからローマ市での人気喜劇作家となり、前184年あたりに死去したとみなされているのだが、その20作の喜劇はほぼ完全な上演可能な形で伝えられている。彼の後、完全作品を残しえた文学者は途切れることがなかったし、前1世紀にラテン文学はいわゆる黄金時代を迎えたのであった。その後の白銀時代とさらにその後の数世紀の間に膨大の量のラテン語文書が書かれてそのかなりの部分が現在にまで残されて世界の文化的資産として尊崇されている。
それだけなら特に言うべきことではないのである。注目すべき特殊性は、ラテン語の母胎であったローマ国家が瓦解して文人の姿が消えて文学活動が衰微しようとも、ラテン語で文書を作成する行為自体は消え去りはしなかったことである。国家が異民族に支配され、人の日常言語がどのように変化していこうとも、文語としてのラテン語では変化は最小限であったしその後現在に至るまでラテン語は基本的には同じのままである。ラテン語は、紀元後数世紀の間に不変なるものに変身するという稀なる現象を体現していたと言うべきである。
変身を可能とした根本的要因は、ラテン語が文学の黄金時代や白銀時代の間に内部に蓄えて来たそれ自身の文化的力量である。ラテン語は、ローマ国家の消長のごときから決定的影響を蒙りはしないほど強くなっていた。それを可能としたのは第一に自身が備えていた文化的力量の強靭さ、敢えて言い換えれば「言語としての優秀さ」であったと認定すべきである。さらにカトリック教会の言語として機能し始めたことによって、文語としてのラテン語は国家間の拮抗などには支配されない基盤をも獲得した。イタリア半島の一部から生まれ出た一言語が、他の地域の諸民族の歴史的文化的特殊性をも超越しうる不変で無尽蔵の道具として機能することになった。それこそがラテン語の特殊性である。
結果として、21世紀の現在でもラテン語は消えることなく世界の至る所で「使用」されている。現代のラテン語使用例の中でも特殊に見えるものを特に選んでみると、たとえば松尾芭蕉の「古池や」の名句はイタリア人によって古典ラテン語詩の韻律でラテン語に翻訳されて公開されているし、ラテン語での自作詩を書物で発表した日本人は昭和・平成に複数おられた。時代の変化に合わせた新しい語彙が必要なときは、他言語からの借用は最小限に抑えてラテン語内部からの調達に頼り、internetはinterreteとなる。WikipediaはVikipaediaとされてもちろんそこにはラテン語での記事が満載である。ラテン語の命は消えないのだから、その使用の「終末」はない。
「使用」の意味を口語的使用にまで広げるなら、詳しくは知らぬもののヴァチカン法王庁内の会話ではラテン語が使われると聞いている。一般社会でのラテン語「使用」は、それはもう好事家のグループ内でしか存在しないであろう。ラテン語が変化して生まれて来た子孫言語(ロマンス諸語)の「使用」なら日常行為であるものの、そこにまで説明を広げることは無用と判断する。
質問の第二段、「古代ラテン語を細かく時代区分すればどのようになるか」にこれから入る。
ローマ国家が安泰であった時期に文学者が残した文書のラテン語を特に古典ラテン語(英語ではClassical Latin)として区別することがある。それに対するものとしてローマ国家瓦解ののちにも生まれ続けた文書のラテン語には時代順に中世ラテン語(Mediaeval Latin)と近代ラテン語(Modern Latin)という呼称が作られている。プラウトゥス以前のもっと古いラテン語を区別するべきと考えるならそれには古拙ラテン語(Archaic Latin)との呼称もある。
この四つの呼称がつまり「時代区分」であるのだが、これをたとえば英語の歴史におけるOld English, Middle English, Modern Englishのような時代区分と同一視してはならない。英語の場合は言語そのものの文法や語彙の形が変化したのであって、英米人はいかに教養高い人であろうとも、言語の専門家でなければOld Englishは理解できない。日本の奈良時代にあたる時代の英語でしかないのに、それはその後に生じた変化の激しさの結果今では普通の英語話者には外国語同様となっている。ここにあるのは「真の言語史」と呼ぶべきものであり、この三種は時代区分を言語学的意味で誤りなく表す用語である。
一方ラテン語の方はその構造は基本的には変わっていない。四名称はそれが書かれた時代の区別のためであって、そこに差異は存在するとしてもそれは言語自体の根本的差異ではない。差異と言ってもその内容の時代的特性や著者の個性が現れている現象と理解すべきで、これは「真の言語史」の問題ではないのである。
ただし、「中世ラテン語」を「古典ラテン語」から区別してその特質をあらわに見せているものがあった。それは詩である。詩を読むことでラテン語は音声の局面においてだけは真の「変化」を経験したことがわかる。詩は一定の韻律の規則に基づいて音読されるから詩なのであり、韻律はその言語の綴りと発音の関係を証言する。ラテン語は、それを音読する人にとって「高低アクセント」の言語から「強弱アクセント」の言語に変質しており、ラテン語の本質的特徴の一つである母音の長短の区別も人の発音からは消失している。確定できぬある時期にその変化がラテン語で確実に起こったことが、散文資料から見えてはこなくとも、詩だけはそれを明瞭に示している。
ラテン語の詩に変化が生じたのである。母音の長短の区別に基づいた古典ラテン語詩の韻律技法が無視されて、母音の強弱の区別を用いる韻律で書かれた詩が出て来た。それぞれ長短詩、強弱詩と呼ぶことにすると、強弱詩は6世紀には既に誕生しており、それ以後の中世の詩では主流となってその後長く続くのである。ただし「中世ラテン語」の時代でも強弱詩には耐えられない教養ある人士はいたから古典ラテン語的な長短詩が消え去ることはなかった。ルネッサンス以後に「古典ラテン語」の学問的知識が広まると、詩の主流は再び長短詩に戻り古典的韻律を用いた作品が作られる。現代のラテン語詩の主流は長短詩である。
質問にあった「細かく時代区分する」ことにからめて「中世ラテン語」の開始の時期を特定しようと試みるなら、強弱詩の誕生はその指標となりうるであろう。しかしそれはラテン語を音読する際での人間の慣習の時代的変化に過ぎないのである。文語として継続するラテン語自体が別物に変化したのではないから、結局のところ「古典ラテン語」を学べば、「中世ラテン語」での強弱詩をも含めてラテン語はすべて読める。問題はいかにそれぞれに馴れるかに過ぎないことを知るべきである。
ラテン語の長い歴史の中では「中世ラテン語」をこれ以上議論する必要性はないし「近代ラテン語」に関しても同様である。「細かく時代区分をすればどのようになるか」の問いへの答えはこれだけで済ませても良いのではないか。
(回答後半部)
ただしそれは、「ラテン語学」という範疇しか視界に入れない場合の結論である。「ラテン語学」の概念を広げて、そこにラテン語の子孫言語との歴史的関係までを織り込んだ「ロマンス語学」的探求をも思考に取り入れるとなると、事情は変わる。ラテン語はある時期から多くの子孫言語へと変化していったのは事実であるから、そこには「言語の変化」という歴史言語学の要素が絡まってくる。その変化がいつどのように起こったかを記述するためには「古典ラテン語」と「中世ラテン語」との歴史的関係の解説は必要となってくる。「古典ラテン語」の時代に起こり始めたある言語現象とそれが「中世ラテン語」に及ぼした余波とを言語史的にどのように解説すべきかが課題となるのである。
「古典ラテン語」の時代においても、文人が書く言語と一般庶民の日常言語との間には一応の差異はあったはずである。基本的に農民の言語であったものから文化的言語へと急成長したのが古典ラテン語であった。最初はわずかであった差異は時代と共に大きく開いて行き、最終的には古典ラテン語的言語を日常言語として使用する人は存在しなくなった。しかし、そのような決定的事実をものともせずに「古典ラテン語」の基本は規範として変わらずに生き続け、文語としては途切れることなく使用され続けたことが大前提となる。
庶民の用いる日常言語が止まることなく変化しているのに、文書用言語は変わらずに生き延びていたから、相異なった両者が並立している状態がある時期から始まりその後も続いたのである。後1世紀成立の『サテュリコン』は、基本的には「古典ラテン語」による小説なのに非古典ラテン語的表現が意識的に織り込まれていた。そのようなものの実態が既に文人によっても知られて効果的に文学に利用されていたのである。文人には意識されずとも、ポンペイの遺跡には同時期の庶民の言語活動が落書きの形で保存されていて古典ラテン語との差異を実証している。
ロマンス諸語の実際の親となった言語はそのような庶民の日常言語なのであった。それは「古典ラテン語」の時代に既にあり、「中世ラテン語」の時代に独自性を大きく広げて行ったことであろうと推測はできるが、その変化の諸段階を別々に示しているラテン語文書があるのではない。文書が示しているのは、既に起こっていた決定的変化を示すばらばらな事例だけである。しかし、「古典ラテン語」とは呼べなくなった民衆語的表現の諸例が相互に無関係ではなくて一定の方向を示す特徴を持っていることが見えてくると、ラテン語の子孫言語群の実際の祖先であったと認定しうる言語像の想定も可能となる。
「古典ラテン語」ではないそのような言語を一種の実態と仮定して、それに「俗ラテン語」という呼称を着けることがある。ドイツ人研究者が使い始めた用語が英語ではvulgar Latinとなって日本語ではそのように翻訳されている。特に日本のロマンス語学者には重宝されて使われる「俗ラテン語」なるものを、「古典ラテン語」と並立して存在した実在の言語だと理解してはならない。それは要するにロマンス語学者が思弁的に組み立てた架空言語に着けられた名称に過ぎない。広大な地域に広がり時代的にも異なる膨大なラテン語文書を渉猟すると、そこには非古典語的表現が点在して見つかる。それを拾い集めてまとめると、そこからある種の言語の像が見えてくるので、そのようにロマンス語研究者の脳裏に浮かび上がる言語の全体像に施された名称の一つが「俗ラテン語」である。別の名称も可能であって、もっと実証的に比較言語学にふさわしい名称としてその想定上の言語は「ロマンス祖語」Proto-Romanceとも呼ばれるのである。
ローマ帝国の大部分で共通語の役割を果たしていたラテン語がいつ共通語の役割を果たせなくなるほど変質したのかという問いには両極端の答えが言われている。ローマ人による征服が始まったときから既にラテン語は地域毎に異なっていたのだという説があり、もう一方ではラテン語は長く均質であり、800年頃になってやっと別々の言語に別れたのだという説もある。しかしそのようなラテン語史の探求はラテン語学ではなくてロマンス諸語の歴史的研究に属しているものである。現代のロマンス語学研究者が様々に推測する説を立てていても、それらは「ラテン語の時代区分」との関りはないから紹介はしない。
(回答者:小林 標)