西洋古典学への誘い

西井奨:西洋古典と『走れメロス』(3)

 太宰治『走れメロス』の題材は、ドイツの文豪シラーの『人質』を介し、古代ローマの著作家ヒュギーヌスの名で伝わる『神話伝説集』に遡ることができる。ただし太宰自身は、特に西洋古典文学に通暁していたというわけではなく(『駆け込み訴え』という、聖書に取材した作品はあるが)、『走れメロス』はもっぱらシラーの作品の邦訳にのみ取材したそうである。それゆえ『走れメロス』が、「古代のシチリア島」を舞台とし、メロスがその島の「牧人」であることは、太宰自身の西洋古典文学の教養に根差すものではない。しかし、『走れメロス』がそのような設定である以上、改めて西洋古典文学の視点から作品を鑑賞することは、興味深い試みとなるだろう。  

 『走れメロス』の印象的な場面の一つに、シラクサに戻る途中で力尽きたメロスが、ふと見つけた泉の水を飲み、再び活力を得るという件がある。友セリヌンティウスを人質としてシラクサに残したメロスは、急いで故郷の村に帰り妹の結婚式を挙げ、そしてまたシラクサへと向かう。道中メロスは雨で増水した濁流や命を狙う山賊たちを乗り切ったまではよいが、疲れ果てとうとう立ち上がれなくなる。そして気持ちもどんどん後ろ向きになってゆき、もうどうにでもなれと身を投げ出してまどろむ。その時、メロスの耳に水の流れる音が聞こえてくる。

「ふと耳に、潺々(せんせん)、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々(こんこん)と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。」

 ここで、メロスが泉を見つけてその水を飲み力を取り戻す場面は、太宰が種本としたシラーの『人質』にもある。なお、シラーが参照したヒュギーヌスのテクストにはこのような記述はなく、この場面はシラーのオリジナルだと考えられる。

 太宰にせよシラーにせよ、この場面の描写はあながち変なものではない。というのも、作品の舞台となったシチリア島の自然は山がちで岩が多く、そこから湧き出る泉はシチリア出身の牧歌詩人テオクリトスにも歌われているところだからである。メロスがシラクサへの道のりで泉を発見するというのは、ごくありそうなことなのである。

 その一方、太宰治『走れメロス』でのこの場面の描写には、独特のものがある。「何か小さく囁きながら清水が湧き出ている」・「泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた」・「夢から覚めたような気がした」というように、どこかしら神秘的な印象を感じさせるのである。この泉には、何か不思議な力でも宿っていたのではないかと考えさせられる。

 そこで思い当る節がある。シラクサにある「アレトゥーサの泉」である。この泉は、ニンフのアレトゥーサが姿を変えたものだという伝説で知られている。それではメロスが水を飲んだ泉は、アレトゥーサの泉だと考えることができるだろうか。残念ながらこれは無理のある想定である。というのも、まずこの時点でメロスはまだシラクサに辿り着いていないし、「アレトゥーサの泉」はシラクサの周辺部にあるというわけでもなく、当時シラクサの中心部であった地続きの小島オルテュギアにあったからである。

 しかし、アレトゥーサの伝説について思いを馳せると、この時メロスが飲んだ泉の水には、もしかしてやはり何かしら彼女の干渉があったのではないかと思えてくる。

 アレトゥーサはかつて、女神アルテミスに仕えてギリシア本土で暮らしていた。そんなある日、彼女はペロポネソス半島を流れる大河アルペイオスの河神に見初められて追いかけられる。そしてとうとう彼女は、海底の地下を通ってオルテュギアまで逃げて来た。それゆえ、「アレトゥーサの泉」から湧き出る淡水は、ギリシアのアルペイオス河から来ているという。このような伝承は、アルペイオス河に伏流水が多かったことに由来するらしい。

 現実にアルペイオス河とアレトゥーサの泉が繋がっているかどうかはさておき、「地下水脈」ということを考えると、アレトゥーサの泉と水脈を同じくする泉がシラクサ近郊にも湧き出ているということは十分あり得ることである。そこで、友を救うためシラクサへ辿り着かなければならない牧人メロスに、憐れみを覚えた泉の化身アレトゥーサが、地下水脈を介してメロスの前に顕現し、彼に力を与えたのだと想定することは十分可能なのではないだろうか。

 アレトゥーサの泉はテオクリトス『牧歌』で言及され、牧歌の継承者たるウェルギリウスにも呼びかけられる存在であり(『牧歌』第10歌1)、牧歌で歌われる「牧人」と関わりが深い。シチリアの牧人メロスは、そのようなアレトゥーサの加護に与ったのかもしれない。


Mappa dell'isola di Ortigia a Siracusa, tratta dalla guida Baedeker del 1905.
Wikimedia Commons
(シラクサ市のオルテュギア島(現在のオルティージャ)の地図。「アレトゥーサの泉」はC6にある。シラクサへのギリシア人の植民は、オルテュギアを拠点に始まった。)


La Fonte Aretusa a Siracusa, sull'isola di Ortigia.
Wikimedia Commons
(現在の「アレトゥーサの泉」。海のすぐ傍にありながら、現在も淡水が湧き出ている。アレトゥーサの伝説は、オウィディウス『変身物語』にも詳しく描かれている(中村善也訳(岩波文庫)では、上巻 p. 195-216)。)

西井奨(京都大学・同志社大学・大阪大学)