古典学エッセイ

丹下和彦:無いものねだり

 学会ホームページの今月の表紙絵を見て思うところがあった。それについて書いてみたい。

 最近舞台上のメーデイアにおめもじする機会があった。在阪の小劇団清流劇場が秋の公演でエウリピデスの『メデイア』を上演したのだ(10/17~21、大阪天王寺、一心寺シアター倶楽)。昨春の『オイディプス王』に続くギリシア悲劇の上演である。

 蜷川演出のものもそうだが、ギリシア悲劇を現代の劇場で上演するとなるとかなりの面で大幅な変更を余儀なくさせられる。神を登場人物としてどう扱うか、コロスの歌舞を現代の屋内の劇場の舞台空間でどう位置づけるか、それら馴染みないものを現代の観客の嗜好にどう合わせるか、いや合わせる必要はないのか。

 今回演出者は舞台上にまったく現代的な居住空間を設営した。ベッド、テレビ、流し、冷蔵庫、食卓――というメーデイアの居室である。そこで彼女は、また訪れて来たイアーソーンも飲食し互いに口論もする。子供はテレビゲームにうつつを抜かす。アイゲウスもこの居室でメーデイアと会い、アテーナイへの迎え入れを約束する。コロスは舞台上を、すなわち部屋のなかを自在に歩き回り、メーデイアを慰めかつ忠告を試みる。このような現代化あるいは世俗化――その最たるものは舞台上での飲食であると思うが――それを良しとするか否か、これはギリシア悲劇を現代において上演する意義の有無にもかかわってくる問題だ。

 ここに一枚の絵がある。ドラクロワが描いた「怒りのメデア」である。ふくよかな体躯の女性の立ち姿、その膝に抱える二人の幼児、右手に鋭い視線を向けた横顔、太い腕、白く豊かな胸、背に流れる黒髪、そして左手に握りしめた短剣。わが子を殺す寸前のメーデイアである。ここにいるのはなるほど怒りに満ちた険しい一人の女だが、しかしそれはコルキス生まれの魔女メーデイアではなく、19世紀のロマン主義風に処理された人間メーデイアである。それでも彼女はテュ―モスに襲われれば子供を殺す。上述の舞台のホットケーキを食べるメーデイアもテュ―モスのために子供を殺す。

 エウリピデスは悲劇の要因となる「テュ―モス(激情)」を発見した。この発見は、以後さまざまな創作のタネ火として長く重用されてきた。それはよくわかっている。しかしわたしたちが求めるべきは、じつは「子供を殺す前のメーデイア」ではなく、「殺した後のメーデイア」ではないか。ギリシア悲劇を現代において読みまた上演するのは、それを、その彼女を探し求めてのことではないか。

 メーデイアはテュ―モスに駆られて子供殺しを犯した。ではその後始末はどう付けるのか。エウリピデスは殺害後の彼女をただ竜車に乗せて天空を走らせるにとどめた。ドラクロワはそれについては何も描いていない。くだんの舞台もそれらしい納得のゆく解答は見せられなかった。それならば客席にいるわたしたちが竜車に乗せられてゆくメーデイアの心のうちを慮らねばならない。それこそが再読再演の意義ではないか。「発見されたテュ―モス」をただ千篇一律に繰り返して確認するのではなく、その意味を個々に跡付けることこそが、じつはわたしたちの仕事なのである、そう思われる。

丹下和彦、2018/12/12